第21話:嵐の前夜
迎えたこけら落とし公演初日の前夜。
俺は主治医の正式な退院許可をもらってJアリーナの地下コントロールルームへと戻っていた。
窓の外では、Jウェザー社が警告していた通り、関東直撃を控えた超大型台風の外縁が猛烈な風雨を巻き起こし、巨大なドーム構造の壁面を重く叩きつけている。
「五代さん、通信回線の三重冗長化の準備、完了しました!」
三島さんが汗だくになりながら報告に走ってきた。
今回の台風の規模を考えれば、通常のバックアップ体制では瞬時に全滅する。俺たちはメインの光回線に加え、別経路のダークファイバーを用いた第2バックアップ、さらに高所アンテナを利用したミリ波無線バックアップ回線まで引き込み、完全なる「通信回線の三重冗長化(トリプルパス構成)」を構築していた。どれか2系統が物理切断されても、論理層でミリ秒単位のフェイルオーバーを行い、配信と音声制御を絶対に死守する防壁だ。
だが、最大の問題は「電源」だった。
アリーナ自体の非常用自家発電機はあるものの、ステージの巨大LEDスクリーン、全世界への8K配信サーバー、そして全館の音響・照明機器をフル稼働させるには、電力が圧倒的に足りない。
その絶望的な電力不足を解決したのは、意外な人物だった。
「電源車の手配なら、すでにこちらで動いている」
低い声とともに、コントロールルームの扉が開いた。そこに立っていたのは神宮寺だった。
彼の表情には、先日のゲネプロで見せた敗北感の色はなく、冷徹で揺るぎないプロデューサーの決意が宿っている。
「Jグループの総力を挙げ、都内および近郊の大型電源車を四台、特例の警察誘導をつけて手配した。すでにアリーナの地下搬入口に到着し、受電テストに入っている。……我がグループのフラッグシップアリーナのこけら落としだ。停電ごときに、この最高のステージを止めるわけにはいかない」
神宮寺のその言葉に、三島や現場のスタッフたちから小さなどよめきと安堵の息が漏れた。
かつては冷徹な敵だと思っていた男が、いまや最大の支援者としてこの空間を守ろうとしている。
「……助かります、神宮寺さん」
俺が短く礼を言うと、神宮寺はフッと片眉を上げ、静かにうなずいて部屋を出て行った。
◇
真夜中。台風の暴風域がアリーナを完全に呑み込んだ。
外はすさまじい轟音と吹き付ける暴風雨で、まるで要塞全体が唸りをあげるような圧力を発している。
モニターの数値を見つめていた矢先だった。
「五代さんっ! 外部送電網が完全にブラックアウトしました! 大規模停電発生です!」
三島さんの悲鳴のような声と同時に、コントロールルームのメイン照明が消え、非常用の赤く薄暗い保安灯へと切り替えた。
だが、次の瞬間、重厚なエンジン音とともに地下の電源車が自動稼働し、アリーナのシステムに莫大な電力が一気に流れ込んだ。
「電源、保持! 系統電圧、正常値です!」
しかし、自然の猛威はそれだけで終わらなかった。
「っ……! 第2バックアップの光回線、暴風による架空ケーブルの揺らぎでリンクロス! 1系統喪失しました!」
「慌てるな! 予測範疇だ。残るメイン回線とミリ波無線へ、トラフィックをミリ秒単位ですべて即時ルーティング(フェイルオーバー)しろ! パケットロスを出すな!」
俺は血走った目をモニターに張り付け、キーボードを叩き続けた。
暴風雨が唸りをあげる中、ネットワークの切替処理が奇跡的に間に合い、配信映像も音声の同期信号も微塵の揺らぎも見せずに耐え抜いた。
地獄のような停電と回線断の嵐のなか、俺たちは一睡もせず、ただひたすらにシステムを監視し、守り抜いた。
◇
翌朝――。
窓の外を覆っていた重い黒雲が嘘のように引き裂かれ、まばゆい朝日がJアリーナのガラスドームを眩しく照らし出していた。
超大型台風は夜のうちにスピードを上げて関東を通り過ぎ、吹き返しの風もすっかり鎮まっていた。交通網も、一部の遅延を除いてほぼ完全に復旧している。
アリーナの地下コントロールルーム。
モニタに並ぶすべてのステータスインジケータは、どこまでも美しい「緑色の光」を点滅させていた。
「……朝だ……。やり切った……!」
三島さんが椅子にもたれかかり、力なく、けれど満面の笑みを浮かべた。
俺も深く息を吐き出し、ノートPCのキーボードから手を離した。全身が鉛のように重いが、胸の奥にはそれ以上の熱い達成感が満ちていた。
外からは、こけら落とし公演の初日を楽しみに集まった観客たちの、胸を高鳴らせるざわめきと足音が聞こえてくる。
嵐は過ぎ去った。
あとは、この最高のステージで、藍奈さんの歌声を世界へ解き放つだけだ。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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