第19話:執念の融着(スプライス)
病院の個室で三島さんからの絶望的な報せを聞いた瞬間、俺はベッドの上に立ち上がっていた。
メインの光ファイバーが重機事故で引きちぎられ、バックアップのマルチプレクサ基盤も熱暴走でショートした。このままでは3日後のゲネプロどころか、Jアリーナのすべてのネットワークが永遠に沈黙する。
「……行くしかない」
俺は点滴の針を自分の手で抜き、パジャマの上からジャケットを羽織った。その時、ちょうど回診の時間だった担当医が病室に入ってきて、青ざめた表情で立ちすくんだ。
「五代さん!? 一体何を――安静にしていなければならないと言ったはずです!」
「先生、申し訳ない」
俺は軽く頭痛の走る頭を抑えつつ、主治医の目の前に歩み寄ると、深く頭を下げてから真摯な声で話し始めた。
「これまでの脳の精密検査で、器質的な疾患や出血がないことは確認済みのはずです。あと2日おとなしくしていれば退院できることも、よく理解しています。……ですが、今すぐあの現場に行かせてください。私が設計したネットワークの心臓部で致命的な事故が起きました。私の頭脳と技術でなければ修復の指揮が執れない物理破損なのです。ここで引き下がったら、現場で汗を流している仲間たちの努力も、私の担当するアーティストの人生も、すべてが終わってしまいます。どうか、お願いします」
主治医は呆れたように大きく息を吐き、そして俺の血走った眼差しと真剣な表情をじっと見つめた。やがて、彼は折れたようにカルテボードを脇に置いた。
キリキリと痛む頭を押さえる俺を見て、主治医は静かに首を横に振った。
「……まったく、これだからエンジニアという生き物は。どうせ止めても勝手に抜け出すのでしょう。ですが、あなたのカルテの数値や検査結果を見る限り、突然の致命的な発作リスクは低いと判断できます。――条件を出します。今日の夕方までの数時間のみ、スタッフの付き添いを厳守し、無茶をしないことを約束する『条件付きの一時外出』としましょう。現場で再び倒れたら、次は命に関わりますからね。覚悟しなさい」
「……ありがとうございます、先生! ご迷惑をおかけします」
俺は深く頭を下げ、病院の裏口でタクシーに飛び乗り、一目散にJアリーナへと向かった。
◇
Jアリーナの地下通路にたどり着いた時、そこはまるで戦場のような慌ただしさだった。
「五代さんっ……! 本当に来てくれたんですか!」
額に汗を浮かべた三島さんが駆け寄ってくる。その周囲には、三島さんが夜を徹して連絡を入れてくれた協力会社のエキスパートたちや、現場のスタッフたちが集まっていた。
誰もが泥まみれになり、破断したケーブルの回収と予備パーツの搬入に奔走している。
「状況は?」
俺は荒い息を整えながら、仮設ラックの前に立った。
「最悪です! メインの光ファイバーは芯線がバラバラに引きちぎられていて、このままではただのゴミです。おまけにバックアップ側の基盤も完全に焼き切れています。……ですが、協力会社の皆さんが特急で代替のマルチプレクサ基盤と、新しい光ケーブルを手配してくれました!」
三島さんが指差した先には、ずらりと並んだ新しい機材と、屈強なエンジニアたちの姿があった。
「五代さん、あんたが設計したこのアリーナの音の通り道を、俺たちに諦めさせるなよ。やれるだけのことは全部やるから、指示をくれ!」
協力会社のベテランエンジニアが力強く笑ってみせた。
胸の奥が熱くなった。俺は一人で戦っていたわけじゃない。三島が動き、仲間たちが動き、みんながこのステージの音を守ろうとしてくれている。
「よし……! 皆さん、時間がない。手分けして同時並行で進めます!」
俺はフラつく身体を気力で押さえ込み、地下のケーブルラックの前に立って声を張り上げた。
「光ファイバーの物理的な融着と配線の引き直しは、協力会社のエキスパートチームに一任します! 手の空いている者は、三島さんと一緒に焼き切れたマルチプレクサ基盤の換装を急いでくれ!」
指示が飛んだ瞬間、現場の空気がピタリと一つにまとまった。
協力会社のベテランたちが専用のスプライサーを手に取り、慣れた手つきで引きちぎられた光の芯線を繋ぎ合わせていく。一方で三島さんと現場スタッフたちが、息の合ったコンビネーションで焼け焦げた基盤を外し、新しい機器をラックへマウントしていく。
俺は全体を俯瞰し、ネットワーク機器の入れ替え作業へ細かく的確な指示を出し続けた。
「三島さん、そこのSFPモジュールのトランシーバ、挿す前にポートの清掃を忘れるな! 融着班、コアアライメントの減衰値が出たらすぐに報告を!」
「了解! 融着完了、減衰値0.02dB、規格内です!」
「ハードウェア層、全基盤のリンクアップ確認しました!」
三島さんと現場スタッフの声が地下通路に響き渡る。
「よし、ここからが俺の仕事だ……!」
俺はノートPCを叩き、QoSの帯域制御ポリシーマップを再適用し、PTPクロックの超高精度同期を流し込む。現場の全員の汗と技術が結集したその物理層の上へ、完璧な論理の防壁を再構築していく。
画面上のすべてのインジケータが、再び鮮やかな緑色の光を取り戻した。
パケットロス率、ゼロ。ジッタの揺らぎ、完全に消失。
絶望の淵にあったネットワークが、俺たちの執念とチームワークによって完全に蘇ったのだ。
「……やった……終わったぞ……!」
その場に崩れ落ちるように膝をついた俺を、三島さんと現場のスタッフたちが笑顔で支え起こしてくれた。
外の雨はまだ止まないが、俺たちの手で守り抜いた音の回路は、明日という本番のステージへ向けて、確かな鼓動を始めていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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