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魔法使いのエリス:三角帽子と夏の星  作者: 帆立
終章:あなたのとなりで
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後日談:記憶の音色と夏の風

 新聞記事によると、満を持して来年、中流層向けの自家用車が発売されるという。

 きたるべき自動車社会に備え、交通体系の整備が始まる。それに先駆けて、今月から王都を含む主要な都市に信号機が試験導入されている。本来なら夏に始まるはずであったそれは、ヌシの襲来によって一ヶ月先延ばしにされていた。

 エリスは新聞をテーブルの脇に置き、熱いコーヒーを口に含む。

 ハチミツのまろやかさが苦味を和らげてくれるおかげで香りを十分に楽しめる。メイドがバスケットに入れて持ってきたクルミパンにも、ハチミツを贅沢に塗りたくってかじった。

 別のメイドが「お嬢さま、お手紙です」とトレイに便箋を運んできた。

 懐かしい名前が記されている。

 はやる気持ちを抑え、エリスは慎重に封蝋を剥いで中身を取り出した。


 エリス、元気ですか。

 ボクは元気です。お父さんもお母さんも元気です。

 夏が終わって、そろそろ秋がきます。夜と朝が肌寒くなってきました。お花畑の花が少なくなってきてちょっと寂しいです。

 来年、ボクも学校に通えるようになりました。いっぱい勉強して、ボクらが暮らしていた頃のアクアを取り戻したいです。

 またいっしょに遊ぼう。

 キア・マキナより。

 エリスへ。


 同封されていた写真が便箋から滑って膝に落ちる。

 山腹の花畑に囲まれたロッジを背に、薄手のワンピースを着たキアが両親と並んではにかんでいる。母親の胸元には、ネックレスに繋がれた銀の指環が光っている。娘の肩を抱く手の指には見栄えの悪い、ガラクタの指環が大事にはめられている。父親はいつもどおりのタンクトップ。

 幸せな家族の写真に微笑んでいるうちに、エリスは寂寥を覚えてきた。

 キアとレア、シノノメは約束どおり三人で暮らしはじめ、ヴリトラはスラムのリーダーとして四等市民たちを守っている。エリス自身もシノノメのもとでの『留学』を終えて、本来の学校生活に戻っていた。

 シオンは帰ってこなかった。

 道は分かたれた。

 皆、各々異なった生活を送っている。

 狭苦しい暑苦しい集合住宅で賑やかな共同生活を送っていた日々が懐かしい。港湾都市アクアが壊滅してから一ヶ月程度しか経っていないというのに、魔法使いの修行の日々は遠い過去の思い出として色あせつつあった。

 記憶に残るシオンの笑顔も今やかすれてしまっている。

 光陰矢のごとし。

 現在から過去への移ろいは残酷なまでに早い。

 手紙を胸に抱き、目をつむり、深呼吸。


「泣き虫なのいい加減直せよな、イモ娘」

「へっ?」

「あと五年も経てば、お前だって魔動師(まどうし)になるんだぜ?」


 エリスは素早く開いた目を白黒させた。

 太刀を腰に差した、調子のよさそうな青年――紛うことなきシノノメ・マキナ本人が、いつのまにかエリスの隣の席で肘をついていた。呆然としているエリスと目が合うと、白い歯をさらした子供っぽい笑いかたをした。


「先生!」

「クラウスの墓参りのついでに寄ったのさ。ふもとから王都まで長い間バスに乗りっぱなしだったから尻が痛くてたまらん。おっ、朝からいいモン食べてるじゃねーか」


 手癖の悪いシノノメはスコーンをすかさず拝借する。


「もう、先生ったら。先生にはバラ……レアさんの料理があるじゃないですか」

「それってアクアにいた頃と同じだし」

「キアちゃんのお父さんになって、心境の変化とかはありましたか?」

「キアと暮らしてるのも前と変わらないっつーの」

「あはは……そうでしたね」

「まぁ『お父さん』て呼ばれるのはちょっとむずかゆいな」


 照れくさそうに頬を掻く仕草がいかにもシノノメらしかった。


 ――エリスちゃん。


 ふいにどこからか声が届く。

 部屋に居合わせているのは自身とシノノメの二人きり。家族は出払っており、メイドたちはあくせく洗濯物の洋服やシーツを運んでいる。


「先生、わたしのこと呼びました?」

「いいや?」


 空耳だったのだろうか。首を傾げる。

 その空耳は彼女を妙に懐かしがらせた。



 ◆◆◆



「街の人たち、あんまり帰ってきませんね。瘴域(しょういき)がなくなったのに」

「そりゃそうさ。焼け跡と瓦礫がたくさん残っているからな。俺たち家族もちょくちょく山から降りて復興の手伝いをしているんだが、瓦礫はまだまだうんざりするほど残ってるぜ」


 立ち寄った廃墟アクアの西区跡。

 黒こげの廃屋や倒壊したビルの隙間で、市民と軍が力を合わせて瓦礫を片付けている。廃屋の解体は軍の兵士たちが担当し、細々としたゴミは市民らが拾っている。

 エリスの学級も週に一度、瓦礫を取り除く手伝いに午後の授業を割り当てている。父や兄たちもアクア復興事業に携わっている。多くの人間たちが手を取り合って、それでも、かつての繁栄を再現するには途方もない年月がかかるのは明らかであった。


「それにしても、俺たちが瘴域を浄化できたなんてな。世界を救った英雄たちですら、瘴域の最奥にすらたどり着けなかったんだ。前代未聞だぜ」


 シノノメがしみじみと言う。


「エリスには驚かされてばかりだ」


 いえ、とエリスはかぶりを振る。


「わたしだけじゃありません。あの人の――」


 ――エリスちゃん、この音色はあなたに届いているかしら。


 虚空からの声がエリスの言葉を遮る。


「声が」

「ん?」

「やっぱり声がする」

「誰の声だ?」

「この声って、もしかして」

「おい、エリス!」

「あの人が……あの人がわたしを呼んでる」

「待てってば!」


 シノノメの制止を振り切り、声の主を求めてエリスは飛び出した。

 西区を出て、第一北区の工場群跡を一直線に過ぎ去り、第二北区のスラムへ。背の低いハリボテ民家の隙間を縫い、産業廃棄物の山の脇を抜け、崩れ落ちたバリケードを越えていく。つむじ風のごとき速さに、通りがかったヴリトラが呆気にとられていた。



 ◆◆◆



 林に囲まれて建つ、打ち捨てられた砦の前に着く。

 黒き霧は晴れている。

 青空が広がっている。

 あの日以来、第二北区の瘴域は完全に消滅していた。

 海に沈んだ魔王の心臓も同様に消えうせていた。港湾都市アクアを巣食っていた瘴域の消滅は市民に希望を与え、滅びの絶望から立ち直らせた。失意に暮れていたのは恐らく、エリスだけだった。

 自然と融和した砦は苔むし、葛に絡みつかれ、緑の色を濃くしている。渡り廊下の屋根をリスが横切り、銃眼に鳥が巣をつくっている。

 鳥のさえずりに混じって甲高い音がする。

 動物の鳴き声や風の鳴らす自然の音とは明らかに異なる、音楽の旋律。

 予感が確信に昇華し、希望が生じる。

 息を弾ませ、胸を躍らせ、エリスは音の近くなるほうを目指して走っていく。驚いたタヌキが草むらに逃げ込み、木の実をついばんでいた小鳥が飛び立っていった。

 草むらをかき分けて獣道に入り、小枝を踏みしだき、邪魔する蔦を掻い潜りながら林の奥を目指す。


 獣道を抜けた先は開けた場所になっていた。

 広々とした空間の真ん中で大樹が孤独に背を伸ばし、陽光を独り占めせんと最大限に枝を広げ、葉をうっそうと茂らせている。

 呼び声と旋律の主は大樹の幹に背をもたれていた。

 木漏れ日が彼女に降り注いでいる。動物たちが彼女に寄り添っている。

 彼女は木の葉を口元に当てて、草笛を奏でている。

 聞き覚えのある草笛の曲は、酒場に流れていたピアノの旋律とぴったり重なった。

 微風が前髪をそよそよと揺らしている。

 前屈みに草笛を吹く彼女。

 黒髪のつやは天使の輪に似ている。


「約束したものね」


 顔を上げた彼女がにこりと微笑む。

 刹那、色あせていたエリスの記憶が彩りを取り戻していく。

 宝石箱にとっておいた宝石が溢れ出てくる。


「あなたのとなりで生きていく――そう、私は望んだから」


 目の前の、大切な人の笑顔が涙の海に揺れた。


 それは、夏の残滓が風で感じられる昼下がりの再会。



(了)

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