最終章:星空の接吻、あるいは復員への転進
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
昭和の汲み取り式バキュームカーのごとき猛烈な吸引接吻を受け、精神の限界(玉砕)を迎えて泥濘の中に沈んだ佐藤伍長は、ゆっくりと意識を浮上させた。
カッと戦眼を開いた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、うっそうとしたジャングルの天蓋の隙間から覗く、吸い込まれそうなほどに美しい夜空だった。満天の星々の中、鋭くも優しい輝きを放つ三日月が、静かに南方の密林を照らしている。オーストラリア軍のブレン軽機関銃の銃声は、もうどこからも聞こえなかった。
「……う、……ううむ……」
身体が芯から冷えているのか、わずかに肌寒さを感じる。佐藤伍長は青光りする坊主頭を揺らしながら、新調された完全軍装の泥を払って上半身を起こした。そして次の瞬間、彼は我が目を疑い、直立不動のまま凝固した。
そこにいたのは、あの鼻の曲がったでかい顔のモアイ像のような老婆ではなかった。
星明かりを浴びて佇んでいたのは、煤まみれの九一式飯盒を灰皿代わりにし、不遜な様子でタバコを深く吹かしている、黒髪ショートヘアの一等可憐な女性だった。つやつやとした黒髪、ツンと上を向いた鼻、そして吸い込まれそうな瞳。紛れもなく、魔法の光の残像の中で一瞬だけ視認していた、あの清純な輝きを放つ乙女そのものの姿が、そこに現座していたのだ。
マリー・イシカワは、タバコの煙を気だるげに夜空へ燻らせながら、佐藤伍長を見てニヤリと不敵に微笑んだ。
佐藤伍長は喉を鳴らし、驚愕のあまり略帽の帽垂布を震わせながら問いかけた。
「……ま、マリー殿。呪いは……解けたのか?」
「ええ、解けたわ。ありがとね」
マリーは可憐な唇をほころばせ、鈴を転がすような美しい声でそう微笑んだ。
――だが、安堵した佐藤伍長が胸を撫で下ろそうとした次の瞬間、彼は自身の耳を激しく疑うことになる。
「ってかさぁ、あんた、バキュームカーだ何だかって叫んで気絶した挙句、ションベン漏らしたの? きったねー! マジでありえなくない? ガキかジジイかよ!」
美少女マリーは、ゲラゲラと下品に腹を抱えて笑い転げた。
「…………ハ?」
佐藤伍長は完全に唖然とした。開いた口が塞がらない。
(お、俺のこれまでの網膜の幻覚は何だったのだ……? 皇軍兵士を救うために命がけでアタブリンをお届けした、あの清純な輝きに満ちた乙女の面影はどこへ消えた!? なんだ、この育ちの悪い、品性を著しく欠いた言葉遣いは……!?)
あまりの凄まじい内面のキャラ崩壊に、佐藤伍長は完全軍装の襟元を濡らすほどの大量の滝汗を、坊主頭から狂暴に噴射し始めた。
そんな伍長を他所に、マリーはとんがり帽子を放り投げ、新品同様になった高級軍衣の前にどっかりと胡坐をかいた。そして、2本目のタバコを美味そうに吹かしながら、煙越しに伍長を睨みつけた。
「ま、元の姿に戻してくれたお礼だ。魔法で何か願い事叶えてやるよ。何でも言ってみな?」
「い、いや……貴殿……」
佐藤伍長は未だに事態が飲み込めず、呆然と項垂れるばかりだった。ただ、先ほどまでの火山ガスのような硫黄の口臭は完全に消え去っており、近づいたマリーの豊かな黒髪や衣服からは、内地の高級料亭かお風呂上がりのような、清潔で上品な石鹸の香りがふわりと漂っている。
マリーは伍長の困惑を見て取り、ニシシと悪ガキのように笑った。
「どーした? もしかして、あの鼻の曲がったババアの方が良かったか? ……あ、もしかして、こういうのがお望み?」
マリーは胡坐をかいたまま、あろうことか自身のスカートの裾を大胆にたくし上げ、「サービスだ」と言い放って自らのパンティを佐藤伍長の目の前に堂々と見せつけた。
「ぶっっっ!!!!」
一九四五年春のポートモレスビーをたった1人で生き抜いた不屈の佐藤伍長だったが、この乙女の常識を前線突破した破廉恥な急襲には耐えられなかった。彼は両の鼻孔から鮮血(鼻血)を勢いよく噴射させながら、深く深くジャングルの泥濘に項垂れた。
「……本職は、……貴殿が、これほどまでに育ちの悪い不良娘だとは思わなかった……。皇軍の軍紀を乱すにも程があるわッ……!」
鼻血を拭いながら、涙目で男のプライドを砕かれる佐藤伍長。その横で、仮設トイレの残骸の上にとまったエゾフクロウの『五郎』が、(だから言ったろ。呪われてお婆さんになってた時の方が、まだマシだったんだよ)とでも言いたげに、「ホウ、ホウ……」と呆れ果てた声を静かに響かせた。
項垂れる佐藤伍長を見つめ、マリーはタバコを飯盒の蓋に押し付けて消すと、ふっとその表情から不良娘のトゲを消し去った。ショートヘアの隙間から覗くその瞳には、かつて佐藤伍長を救うために夜空を駆けた、あの本物の優しさが宿っていた。
「アハハ、安心しな。あんたの願い事なんて、言われなくても分かってるからさ」
マリーは静かに立ち上がり、完全軍装の佐藤伍長に歩み寄った。
「少し、時空をずらすからな。……色々あったけど、元の私に戻してくれて、本当にありがとな、伍長さん」
そう呟いたマリーは、佐藤伍長の泥塗れの頬に、今度はバキュームカーなどではない、羽毛のように軽くて温かい、愛のこもった本物のキスを、そっと静かに施した。
「ッッ……!?」
佐藤伍長が、軍人としての規律も忘れ、一人の男として顔面を真っ赤に赤面させた、まさにその瞬間。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!
辺りを、ジャングルの夜を、そしてポートモレスビーのすべてを消し去るような、視界を完全に白銀に染め上げる強烈な大魔法の光が、二人を優しく包み込んだ。
◇
「……おい、起きろ。おい、佐藤伍長!」
力強く肩を揺すぶられ、佐藤伍長はハッと意識を取り戻した。
灼熱のジャングルの熱気はない。アメーバ赤痢の腹痛も、アメ公の榴弾砲の轟音も、そしてあのトドのような鼾も、硫黄の口臭も、すべてが嘘のように消え去っていた。辺りを包んでいるのは、冷たくもどこか懐かしい、潮騒の匂いと海の香りだった。
「……ここは、……どこだ?」
佐藤伍長が目を開けると、そこには略帽を被った、自分と同じ衣服を着た無数の日本の兵隊たちが、雑魚寝のようにひしめき合っていた。
「どこだって、決まってるだろ。太平洋の上さ。もうすぐ内地の港に着くぞ」
隣の戦友が、タバコを美味そうに吹かしながら笑った。
佐藤伍長は、バッと甲板の上に立ち上がった。
見渡す限りの広大な太平洋。青い海原を力強く押し分けて進むその船は、激戦地から生き残った将兵を祖国へと送り届ける『復員輸送船』だったのだ。
衣服はボロボロだが、彼の傍らには煤まみれの九一式飯盒がしっかりと置かれていた。飯盒の蓋を開けると、そこには薬ではなく、故郷の札幌の石鹸のような、どこまでも清潔で優しい香りが、ほんのりと残されていた。
一九四五年春。ポートモレスビーの緑の地獄を生き抜いた佐藤伍長は、魔女の最後の宅急便(大魔法)によって、ついに生きて郷土の土を踏むという、最大の「現地自活(復員)」を成し遂げたのである。
青空に向かって、佐藤伍長は誰もいない海原へ、静かに、しかし生涯で一番晴れやかな敬礼を送るのだった。
(『一九四五年春・ポートモレスビーの魔女』第一章・完)




