曇天
〈叛乱軍〉
蘇伯……冀州河間郡易県の県令。叛乱の首謀者。己の命と引き替えに、鮮卑へ叛乱の介入を約束させる。
田銀……冀州河間郡易県の兵長。叛乱軍の盟主。
〈鮮卑〉
軻比能……鮮卑の魁。
卑弥……大人。軻比能に仕える。
〈烏丸〉
無臣氐……大人。軻比能に与する。
〈漢〉
曹操……華北を統べる群雄。漢の丞相。田豫の才覚を見抜く。
曹丕……漢の副丞相。曹操の嫡子。
程昱……曹操の謀臣。
鮮于輔……度遼将軍。幽州六郡を統べる。
閻柔……護烏丸校尉。幽州上谷郡に常駐する。北方異民族に慕われる陰の指導者。
牽招……征西から離脱し、叛乱軍平定に向かう将軍。
曹彰……曹操の子息であり、曹丕の弟。征西から離脱し、叛乱軍平定に向かう。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の懐刀。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫を慕う女医。田豫軍の医療班を束ねる。
賈信……防衛を得意とする鄴の将軍。
「さすがは正規軍。歩兵もそろって健脚だ。手足のごとく動くだろう、田豫?」
にやりと、不敵な笑みを浮かべて訊いたのは、黒鋼の兜と重鎧を身にまとった廉正だった。
「ああ。いざというときには、許都から南に派兵しなければならぬというのに、よくぞこれだけの兵が集ってくれたものだ」
各地で治績を挙げる田豫の名は、今や許の都に知れ渡っていた。赴任する城郭に平穏をもたらすばかりではない。近隣の賊徒を討ち払う剛も兼ね備え、率いる兵は大切にされるという。
許の都に務める兵たちは、そのような田豫の噂に、従軍するならば田豫――と、希う者が、少なからずいた。
そこへ、冀州で起きた叛乱軍の鎮定に向かう将として、田豫が抜擢された。従軍を希望する兵は、後を断たなかった。田豫に与えられたのは、その中から選抜された精兵だったのである。
「久し振りに河北に戻るが、戦禍を最小限に留めるには、異民族の介入を阻止することが絶対だ。烏倫……」
田豫は、右の後方を一瞥した。
「はい」
右の耳朶に着けた翡翠の耳飾りが揺れている。肩まで伸びた髪をなびかせ、轡を並べるように、烏倫が駈け上がってきた。黒鋼の軽鎧の上から胡服を羽織っている。
「探馬隊を率い、叛乱軍には目もくれず、北に先駈けてくれ。おそらく、鮮卑、烏丸に注意を払う、閻柔どのと鮮于輔どのの軍が動いているだろう」
烏倫は、閻柔の名に、瞳を輝かせた。
「我らが、鄴に向かっていることを伝えてくれ。さもすれば、閻柔どのも鮮于輔どのも、鮮卑、烏丸の動向に傾注できる。成長したお前を、早く閻柔どのに見せてやりたいしな」
田豫は、烏倫に目を細めた。
「頼んだぞ、烏倫」
厳つい面貌に険しさを帯びた廉正が、烏倫に力強くうなずいた。
「承知いたしました」
口辺に微笑を刷いた烏倫は、拱手した。面から笑みが消えると、後方を振り返って、さっと、馬手を上げた。馬腹を蹴った烏倫は、飛ぶように駈け出した。それに探馬隊の二十騎が後続した。
「早くも手を打つか、田豫」
「叛乱が長引けば長引くほど、西と南に兵を割くこちら側が不利だ。叛乱軍は民だけではあるまい。各城郭に赴任する兵も混ざっているだろう」
風を頬に受けながら、田豫は一寸ほど伸びた顎髯をなでた。
「……戦の訓練を施された者が混在しているとは、厄介だな」
「先年の敗戦が尾を引いている。河北の者に賦課と兵役を課し過ぎていた。曹操どのの焦燥が、叛乱軍に形を変えて現れている」
廉正は、眉をひそめた。
「勝算は……?」
「我らだけでは、難しいだろう。西から戻る軍があると聞いた。そして、閻柔どのと鮮于輔どの――。連携が鍵となる」
「この軍も、死人が多く出そうだな……」
廉正は、うつむいた。
「そう簡単には、死なせませぬ」
田豫の後方から速度を上げて寄せてきた者は、黒鋼の軽鎧に白衣を羽織っていた。肩まで伸びた黒髪をまとめ上げ、白巾で頭を覆っている。
「公孫琳……」
振り返った廉正は、女傑のような医の徒を認めた。
「傷を負った兵は、私たちが援けます。けれど、絶対に無理はさせないでください。傷は治っても、戦場に戻れない体になることもございます」
腰には、弓の収まった弓嚢と、矢束が入った矢筒を引っさげている。各地で医術を施した公孫琳は、医に志す者を集い、今や二十人ほどの医療班を編成していた。軍の最後尾から追従している。
「すまんな、公孫琳。手を焼かせる」
公孫琳に振り返った田豫は、力なく笑った。
「戦のない世とするために流れる血です。それを最小限に留めるのが田豫さまの仕事。傷を癒すのが、私の仕事でございます」
公孫琳は、嫣然と微笑んだ。
田豫は、ふっと、笑った。
「見えてきたな」
前方に、鄴の城郭が小さく映った。
叛乱軍の気配は、まだなかった。
鄴の上空には、曇天が立ち込めていた。
軍評定の最中にあった曹丕の許に、曹操から新たな二つの報せがもたらされた。
慌てた様子で駈け入ってきた伝令の兵が、曹丕の足許にかしずいて告げた。
「鎮定軍の総帥は、田豫どの‼ 田豫どのをご指名――‼」
「なんと――⁉」
「おお……。程昱どのが言っていた、丞相軍謀掾だった者か……」
ざわついた諸官を前に、程昱は、得意げに白髯をしごいた。
「父上……。そう来たか……」
曹丕は、虚空に視線を泳がせながら、独り言ちた。
「程昱どの、曹操さまから、直々にご伝言でございます」
首を立てた伝令は、程昱を見上げた。
「うむ」
立ち上がった伝令は、程昱に歩を寄せると、耳打ちした。
薄ら笑った程昱の目が、異様な光を帯びた。
程昱を一瞥した曹丕は、ただちに下知した。
「聞こえただろう。叛乱軍鎮定の総帥は、田豫! 全権を田豫に委ねる! 各所に触れて回れ! 城郭の防備の要は賈信! 急ぎ兵どもを配置につかせろ! なんとしても乱を鎮める!」
「ははっ!」
文武の諸官たちが、一斉に散っていった。
「曹丕さま――‼」
その場から散る諸官たちとは反対に、曹丕の許に駈け寄る一兵卒があった。
「西の戦線より、曹彰さま、牽招どのが、各々二千騎を率い、ご到着でございます!」




