紅蓮舌
第二十一回小説現代長編新人賞 一次選考落選作品
紅い。
闇夜を押しのけるようだった。
天にも昇る勢いの凄まじい紅蓮舌が、楼閣を覆っている。
その楼閣の高さは、十丈(約三〇m)ほどもあった。幾重もの城壁を備え、十年にも及ぶ糧食を蓄えた難攻不落の城のはずだった。
それが、真紅の魔手に包まれている。燃え盛る業火は、攻め寄せる兵をも遠ざけた。
まとった戦袍は薄汚れていた。近づくにつれ、熱風が頬を打った。退避する兵たちの間を縫うように、大炎を巻き上げる城塞に向かって、ひた走るひとりの青年がいた。
田豫――。その田豫の足が、ゆるゆると止まった。熱風をしのぐように、両腕を顔の前にかざし、炎上する高殿を見上げるより手段がない。両腕の隙間からのぞかせる冴えた眼眸には、悲愁の色が浮いていた。
「なにゆえ……なにゆえに、こうなってしまったのだ……」
田豫は、顫える声で独り言ちると、体から力が抜けたように膝を折った。拳を作ると、悔しげに地へ打ちつけた。
その折、轟音と共に、高楼の一部が崩れ落ちた。
とっさに、田豫は、灼熱の乾いた風を避けるように、頭を抱えて地にうっ伏した。
城を遠巻きに囲む兵たちの喧噪が響き渡っている。それをよそに、踊り狂う紅蓮の炎には、物を燃え尽くす奇妙な音響が上がるばかりで、人の叫びはなかった。
頭を抱えた田豫は、怖ず怖ずと顔を上げた。
とたんに――。
その双眸が引き剥かれた。田豫の目に飛び込んできたのは、前方に倒れ伏している人影だった。夜風が誘ったように、無数の火の粉が、人影の上に舞い散っている。
――援けられない距離ではない。
そう思うが早いか否や、田豫は、人影に向かって駈けた。息をするだけで咽喉が焼けるような熱さだった。ひるむことなく、人影の許まで走り寄ると、肩に担いで火炎の災禍から無心で遠ざかった。
人をひとり抱え、闇夜の乾いた風が、涼しく感じられるほどのところまで逃れた。抱えた者と一緒に、どうっと、倒れ込んだ田豫は、大の字になって空を見上げた。呼吸は荒い。腹が波を打っていた。いつもの星空より、またたきが小さく見えた。
呼吸が落ち着いた田豫は、抱えてきた者を見遣った。
気を失っている。高閣を焼き尽くす業火が、その顔を薄っすらと浮かび上がらせた。
田豫は、悸っとなった。
無理もない。煤まみれではあるが、身形は宮女のようだった。田豫が炎の災厄より救い出したのは、うら若き美質の手弱女だった。腹からあふれ出す鮮血が、上質な着物の腹部を黒々と染めている。
「この娘は……?」
独語した田豫は、煤に汚れた無垢な面に見入った。
辺りに吹き込む乾いた風は、生暖かかった。その風は、丘陵に向かって流れていった。
眼下に見えたのは、天を衝くような火柱だった。
丘陵の頂きから、城が、えんえんと夜空をこがして、燃え上がる光景を見下ろしていたのは、三百の騎馬の群れだった。どれも遊牧騎馬民族が着用する胡服の出で立ちである。それも闇夜に紛れるような漆黒の胡服だった。
一群を率いる男には、口許から右の耳朶に走った傷痕がある。
「これで、俺を邪魔する奴が、またひとり消えた」
その男が、誰にともなくつぶやいた。傷痕が、別の生き物のように動いた。不敵に笑っていた。
空には、眉のような月が、寂しげに浮いている。
それは、かつて、中華の大陸で、漢と呼ばれた大国の命脈が、風前の灯火となった頃のことだった。




