後編
黒髪の男性の言葉に、ジェフリーがはっと目を瞠った。
「あなたは、まさか……」
『ああ、君の想像の通りだ。この狭間の世界を司る者だよ。
もし、今の君が持っているものの中で一番大切なものを差し出すのなら、彼女を返してあげてもいいよ』
ジェフリーの瞳が希望に輝いた。
「本当ですか?
ライラを返してもらえるのなら、僕は何を失ったって構いません」
男性はじっとジェフリーを見つめると、その視線をジェフリーの腕に移した。
『なら、……そうだな。君の腕を貰おうか。この国でも屈指だという、その優れた剣の腕を』
「待ってください!」
ライラは、黒髪の男性の言葉に驚いて声を上げると、男性に向かって否定を示して大きく首を横に振ってから、慌てて泉の元に駆け戻り、水面の向こう側にいるジェフリーに告げた。
「あなたの腕は、天からの授かりものよ。それに、もし今あなたがいる場所で腕を失えば、きっとあなたはそこから生きては帰れないわ。そこには強い魔物がたくさんいるんだもの。
……私のためなんかに、取引に応じるなんて絶対にだめよ」
ジェフリーはライラを見ると、歯を見せて明るく笑った。ライラが幼い頃から見慣れた、ぱっと心を照らしてくれるような晴れやかな笑顔だった。
「言っただろう、ライラ。僕には、君以上に大切なものなんてない。
それに、君は今でも変わらずに、君への便りもままならなかったこんな僕のことを、これほどに想ってくれている。
僕の腕で済むのなら、それで君が取り戻せるというのなら、喜んで差し出すさ」
ジェフリーはそう言ってから、黒髪の男性の方に向き直った。黒髪の男性は、ジェフリーと視線を合わせてから頷く。
『よし、じゃあ交渉成立だな』
彼が言葉を言い終えるや否や、彼の手がライラに触れたところから、ライラの身体が淡い光に包まれ始めた。
黒髪の男性は、驚きと戸惑いを隠せずにいるライラの耳元に、小声で囁いた。
『……魔物にやられて、ジェフリーと一緒に、すぐにここに戻って来ることがないようにね。
それから……』
黒髪の男性の声に耳を澄ませながらも、彼から溢れる眩い光に、ライラは思わず瞳を閉じた。
***
恐る恐るライラが目を開けると、黒髪の男性の代わりに目の前に立っていたのは、紛れもなく、懐かしいジェフリーの姿だった。そして、彼の後ろには小さな泉が、深い青色を映して静かに佇んでいる。
「ライラ!君は、本当に戻って来てくれたんだね」
ジェフリーは感極まった様子でぎゅっとライラを抱き締めたけれど、ライラは震える声で言った。
「ジェフリー、あなたの右腕……」
ライラは、彼の右腕を覆っていたはずの、空っぽでだぶついている服の袖をそっと触った。
王都に向かう前、彼がどれほど剣の腕を磨くために過酷な練習をしてきたのか、ライラはずっと一番近くで見ていたのだ。その片腕がなくなっている姿に、思わず彼女は彼の服の袖に触れている手を握り締めた。
ジェフリーは、そんなライラを励ますように、にこりと笑った。
「あの神様、結構優しかったね?
僕の両腕は奪わずに、僕の利き腕の、左腕のほうを残しておいてくれたんだから。
それに、片腕を失くした僕には、エレオノーラも興味を失うだろう。むしろ、僕にとっては都合がいいかもしれないね。
……残念なのは、君に両腕を回して力一杯抱き締められないことくらいだ。
さあ、魔物に襲われる前に、急いで帰ろう。この左腕さえあれば大丈夫、僕は君を必ず無事に連れて帰るから。
……勝手を言って君を連れ戻してしまったけれど、こんな僕でもいいかい?」
「もちろんよ、ジェフ。私には、あなた以上の人なんていないわ」
ジェフリーの熱の籠もった視線に応えてライラは頷くと、最後に泉を振り返った。別れ際、少し切なげな表情を浮かべながら、そっと顔を近付け瞳を覗き込んできた、黒髪の男性の言葉を思い出す。
『それから、最後に1つだけ、僕から君に頼みがあるんだ。
……僕が君を呼び止めた本当の理由はね、ジェフリーがあの泉に現れたからじゃない。
僕は、ここで僕と同じ役割を担ってくれる相手をずっと探していたんだ。僕は、ここに来る人々を見送るばかりで、長いこと1人だったからね。
凛とした花のような君の姿を見掛けて、その魂がどこまでも澄んでいるのを見て、君に僕と一緒にいてもらえないか、お願いしようと思ったんだよ。
君に声を掛けた時、ちょうどジェフリーも泉のところに現れた。もし、彼が君よりも自身の腕を選んで、腕を失うことを少しでも躊躇っていたのなら、僕は遠慮なく君を攫っていただろう。でも、彼の気持ちは本物だったからね。
そして、君は僕が思ったとおりの心の清らかな女性だったよ、ライラ。
君は、ジェフリーのいない世には未練はないと、ここからすぐに黄泉の国に向かおうとしていたのだろう?できれば彼を探そうと。
……なのに、ジェフリーが生きていることを知って彼の無事を喜び、離れ離れになると知りながら、彼を守るために、早く彼を帰そうとした。
互いに自分よりも相手のことを想う今の君たちには、僕の割り込む隙はないようだね。
さあ、これは現世に戻る一度きりのチャンスだ。
……もし、君が彼に守られて幸せな生涯を送れたのなら、そして、君も腕を失くした彼のことを生涯愛せたのなら、僕も君を諦めよう。
でも。もしもそうでなかったら、次に君がここに来る時には、どうか僕の元に留まっておくれ。
それが、君を彼のところに帰すことへの、君から受け取る代償だ。いいかい?』
ライラの返事を待たずに彼の姿は消えてしまったけれど、そして、あの泉の水面には何も映ってはいなかったけれど、ライラは、彼がまだ泉の向こう側から彼女を見ているような気がした。
(わかりました。もし、万に一つもそのようなことがあれば。
……あなたは優しい方ですね。あなたは私をどうとでもできた筈なのに、ジェフリーの元に返してくださったのですから)
泉を見つめながら、心の中でそう呟いたライラに、ジェフリーが不思議そうに声を掛けた。
「どうしたんだい、ライラ?」
「ううん、何でもないの。……信じているわ、ジェフ」
「任せてくれ。さあ、行こうか」
剣を携えたジェフリーが差し示した彼の逞しい左腕に、そっと自らの腕を絡ませながら、ライラはほんのりと頬を染めると、ジェフリーを見つめて幸せそうに微笑んだのだった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!