第14話 我が弟
今回から第3章、姉・カナ編です。
本作に登場するVtuber・事務所・団体は、すべて架空のものです。
父さんの防音室から聞こえた「よう来たのう」は、聞かなかったことにした。
あれから三日。
俺は、努めて普通に過ごしていた。父さんと目が合うたびに、狐耳が見える気がするのは、きっと疲れのせいだ。
「ハルー、ビール取ってー」
夕飯前のリビング。
ソファから、いつもの声が飛んできた。
姉のカナ。二十八歳。
上下グレーのジャージに、ぼさぼさの髪をクリップでまとめ、ポテチの袋を抱えて寝転がっている。
「自分で取れよ」
「無理ー。今日もう一歩も動けないー。会社でエネルギー使い切ったー」
「毎日それ言ってるだろ」
文句を言いつつ、冷蔵庫から缶ビールを出して渡す。
これも、もはや毎日の儀式だ。
「さんきゅー。ハルはいい弟だねぇ」
――プシュッ。
姉ちゃんがプルタブを引く音を聞いて、俺はふと、何かを思い出しかけた。
この音、どこかで……。
「そういや姉ちゃんの会社って、何してるとこだっけ」
「え? あー……商社。総合商社。いろいろ扱ってるとこ」
「ふーん。忙しそうだな」
「忙しいよぉ。来月なんて、大きいイベントがあって、もう死にそう」
姉ちゃんは缶ビールをあおって、ぐでっとソファに沈んだ。
姉ちゃんは昔からこうだ。
外ではしっかり者で通っているらしいが、家では完全に電池が切れている。
――ただ、ひとつだけ不思議なことがある。
夜八時を過ぎると、姉ちゃんは必ず「筋トレしてくる」と言って防音室にこもる。
そして、二時間後に出てきたときには、なぜか筋肉ではなく喉を酷使したような、かすれた声になっているのだ。
筋トレで、声って枯れるものなんだろうか。
◇
夜九時。
俺はいつものように、騎士団長シルヴィアの配信を開いた。
『騎士団諸君。今宵も集ってくれたこと、心から感謝する』
銀の鎧に、蒼いマント。
凛とした声に、気高い微笑み。
大手事務所「ルミナス・ライブ」の看板Vtuberで、登録者数は二百万人を超える。
何度見ても、かっこいい。
うちのジャージ姉とは、まるで正反対の存在だ。
『さて、今宵は皆に重大な報せがある』
シルヴィア団長が、すっと背筋を伸ばした。
『来月、我が騎士団の三周年を記念して――3Dライブを開催することが決まった』
コメント欄が、爆発した。
『うおおおおおお』
『3Dライブきたああああ』
『団長の新衣装ある!?』
『チケット絶対取る』
「マジか……!」
俺も、思わずガッツポーズをした。
団長の3Dライブ。これは何があっても見なければならない。
『準備は大変だが、騎士の誇りにかけて、最高の舞台を見せると約束しよう』
さすが団長。頼もしい。
『……それと、少し私事だが。最近、我が弟が、なかなかよくやってくれていてな』
――我が弟。
団長の配信に、ときどき出てくる単語だ。
団長には、実家で暮らす弟がいるらしい。
『我が疲れ果てて帰ると、何も言わずにエールを持ってきてくれるのだ』
『エール!?』
『団長、紅茶派じゃなかったの?』
『エール=ビールでは?』
『ち、違う! エールというのは、その……騎士団に伝わる、伝統的な紅茶の名だ!』
『そんな紅茶ねえよw』
『団長、隠す気ある?』
『この前のプシュッもそれか』
コメント欄が、大いに盛り上がる。
俺も、つい笑ってしまった。
「団長にも弟がいるのか。団長の弟って、どんな奴なんだろうな」
あの凛々しい団長の弟だ。
きっと、弟も立派な騎士なんだろう。
『それに、我の弟は優しくてな。文句を言いながらも、必ずエールを持ってきてくれる。……まあ、少々ぶっきらぼうなのが玉に瑕だが』
――文句を言いながらも、必ず持ってくる。
俺は、さっきの自分を思い出した。
「自分で取れよ」と言いながら、冷蔵庫から缶ビールを出して渡した、自分を。
「……いや。いやいやいや」
俺は首を振った。
ちょっと待ってくれ。
妹がお嬢様で、幼なじみが歌い手で、そのうえ父さんが――いや、父さんのはまだ確定じゃない。聞かなかったことにしたんだ。
とにかく。
これ以上、身内がVtuberであってたまるか。
姉ちゃんは、総合商社の会社員だ。
ジャージでポテチを食べながら、ビールを飲んでいる人だ。
二百万人の騎士団を率いる、あの凛々しい団長と同一人物のわけがない。
『――では、そろそろ雑談を締めて、歌を一曲披露しよう』
団長が、すっと息を吸った。
その瞬間。
廊下の向こう、姉ちゃんの防音室のほうから――
「――すぅ」
かすかに、息を吸う音が聞こえた気がした。
「……気のせいだ」
俺はイヤホンを、両耳にぎゅっと押し込んだ。
今日はもう、何も聞こえないことにする。
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