幕間:未知への遠望(中編) side ハバキリ
お日様が天高くへと上り詰める、お昼前の明るい時間。
木漏れ日が斑模様に落ちる原生林の深部で、ハバキリは道なき道を元気いっぱいに突き進んでいた。
オニカド本島と同じ、生命の匂いが強く立ち上る湿った赤土の地面。それを小さな足でしっかりと踏みしめながら、迷いなく前へ前へと足を進めていく。
ガサリ、と音を立てて生い茂る巨大なシダ植物をかき分ければ、潮風とは異なる深緑の濃密な香りが鼻腔をくすぐった。頭上からは時折、腹に響くような凄まじい猛獣の遠吠えや、空を揺らす怪鳥の鋭いわななきが木霊している。
並大抵の者であれば背筋を凍らせて即座に逃げ出してしまうような未開の地。どこから獰猛な牙が飛び出してくるかも分からない、険しく鬱蒼とした道のりだ。
しかし、そんな危険極まりない環境に置かれたハバキリの表情は、苦難どころか輝かんばかりだった。
「〜♪ フンフン〜♪」
可愛らしいおさげを左右にぴょこぴょこと揺らし、楽しそうに鼻歌を口ずさむ。
年相応の無邪気な笑顔を浮かべて歩を進めるその姿は、まるで新しいおもちゃを買い与えてもらったばかりの幼子そのものだ。
機嫌よく鼻歌を歌いながら、ハバキリはまるでそこに整備された大通りでもあるかのように軽快な足取りで進んでいく。
荒波を泳ぎ切ってきたはずの身体には疲れの欠片すら見えず、跳ねるようなステップを踏むたび、まだ完全に乾き切っていない黒髪の先から澄んだ海水が一滴、陽光を浴びてキラリと粒を散らしていた。
時折、草むらから躍り出てくる獰猛な原生獣の類も、気負うことなく軽々と追い払っていく。
「けれども……意外と、そんなに植生は変わらないのですね……」
ふと足を止め、顎にちんまりとした指を当てながらハバキリは周囲を見渡した。
よくよく観察してみれば、拍子抜けするほど本島と景色が変わらない。たしかに個人で泳いで渡るには無茶な距離だったが、船を出せば目と鼻の先にある孤島だ。気候や巡る風が同じである以上、育つ生態系が似通った変化を遂げているのは当然と言えた。
足元に咲く名もなき草花から、天を突くように空高く枝を広げる大樹まで。
微妙に葉っぱの切り込み具合が違ったり、花びらの色彩が濃かったりする程度で、全体としては大きな差はない。
だが、ハバキリの胸に落胆の二文字はない。
見た目がどれほど似通っていようと、いま踏みしめているのは「誰も知らない未開の土」という揺るぎない事実がある。
誰に指示されたわけでもなく、己の意思だけで未知の世界を開拓している——その実感だけで、胸の奥から湧き上がるような興奮と甘やかな高揚感が突き上げてきた。
「ん〜……?」
次の瞬間、ハバキリの足がぴたりと止まった。
生い茂る草むらを踏み分けていた足元に、カツンと異質な感触があったのだ。
視線を落とすと、そこには自然に形成されたとは思えない光景が広がっていた。
緑の隙間から覗いていたのは、大小さまざまな石が隙間なく敷き詰められた不自然な「道」。
自然にできたとは言い難い模様。石と石の境界にはうっすらと雑草が生い茂り、所々がひび割れて新しい生命が小さくも強かに芽吹いている。長い年月、人の手が一切入っていないことを物語る風化の跡。
「……ここに、だれか住んでいたのでしょうか……?」
ハバキリは驚きに目を丸くし、おさげを揺らして首を傾げた。
そんな話は一度たりとも聞いたことがない。
それどころか、「孤島には決して近づいてはならぬ」と、幼い頃から古くからの忌み地として言い伝えられてきたはずだ。
今まではそんな昔話に深い疑問を抱くこともなく、「ふ〜ん、そういうものですか」と聞き流していたのしかし、目の前に現れたあからさまな人工物の痕跡が、彼女の脳裏に次々と疑問の波を押し寄せる。
(……今までの言い伝えは、すべて嘘……? いえ、何かを『隠したかった』ということでありましょうか……?)
ハバキリは着物の裾をきゅっと持ち上げると、その場にぽてんと可愛らしくしゃがみ込んだ。
目の前に広がる古びた石畳を、覗き込むようにじっと観察する。
鬼種特有の美しい赫い手をそっと伸ばし、ひび割れた石の表面に小さな指先で触れてみる。
当然ながら、何も起きない。
「……つめたい」
ただ、木漏れ日の届かない石肌の、ひんやりと冷たく心地よい質感が指先からじんわりと伝わってくるだけだ。
立ち上がり、視線を巡らせる。
その石畳は、深い森林の奥へとまっすぐに伸びていた。
あたかも巨木たちが道を空け、朽ちかけた石畳そのものが「こちらへおいで」と雄弁に導いているかのようだ。
ごくり、とハバキリは小さく生唾を飲み込んだ。喉の動揺とともに、胸の鼓動が速くなっていくのを感じる。
この不気味で魅力的な石畳の先には、一体何が眠っているのだろう。
どんな秘密が、私を待っているのだろう。
「ふふっ……いきますよ〜!」
恐れを通り越した溢れんばかりの期待を胸に抱き、ハバキリはパンと手着物の砂を払うと、誘われるように緑の深淵へ向かって歩き出した。
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「わぁ……!」
進んだ先にあったのは、不自然にひらけた広場だった。といっても、そこまで広いわけではない。
まるで原生林の一部を慎重に切り抜いたかのような場所。
広場の真ん中には、元から生えていたのか後から植えられたのか分からないが、立派な大樹が龍のように枝をくねらせて伸びていた。
その広場の端には、ポツンと小さな木造の建屋があり、その先にはさらに道が続いている。
周りには畑だった所らしき、土を耕した跡も見受けられた。
「こんな所に誰が住んでいたのでしょうか……?」
まるで、この小さな広場全体が家の「庭」であるかのようだ。
よく見ると建物の造り自体は、鬼の里や集落で見かける一般的なそれと何ら変わらない。荒れ果てている中にも、どこか気品や誇りを感じさせる佇まいだった。
「お邪魔しまーす……」
すでに廃墟と化した建屋に、失礼と思いつつも縁側から土足で上がらせてもらう。既に様子は見えていたが、改めて中を見渡す。
当然ながら人の気配はない。ハバキリの通った声が静かに家内に木霊するだけだ。
返ってくるのは、足を踏み入れるたびに軋む床の「ギィ」という低い音と、屋根裏や柱の陰から小動物がつぶらな瞳でこちらを伺う気配のみ。
「ここに住んでいたのは、鬼の方だったのでしょうか……?」
個体差はあるものの、鬼族の平均身長は二メートル近いとされている。だからこそ、基本的には建物の天井や扉が高く造られるのが常だ。この建屋も例に漏れず、全体的に身長が高かった。
いや、高すぎるような気さえする。
愛すべき我が家や領主の邸宅、各集落の長が住まう自宅もそれなりに立派だし鬼の身長に合うような設計されている。ハバキリはまだまだ育ち盛りの鬼だ。どの建屋も高さを感じるのは言うまでもない。
だがここはどうだ。それよりもさらに天井が高いような気がしている。
建屋自体が狭いからか、余計にそう感じた。
もし。
もしこれがかつての家主に合わせた設計ならば、3メートルはゆうに超えているのではないだろうか。
(鬼でそんなにでかい個体がいるなんて、聞いたことが無いですが……)
床板の隙間からは雑草が芽吹き、中央には立派な囲炉裏が設置されている。隣にはもう一室あるようだ。高さを除けば、極めてベーシックな鬼の住宅様式と言えた。
囲炉裏の周りには古びた座布団、壁には枯れた掛け軸や花瓶などが残されており、かつてここに住んでいた住人が几帳面な暮らしを送っていたことを偲ばせる。
隣の一室へと続く引き戸が、僅かに開いていた。
部屋に入るには、いかに華奢なハバキリといえども戸をしっかりと開けなければ通れない。
取手に小さな手を掛け、引き込もうとする。
ハバキリの表情には、探究心のワクワク感と未知への怖さが入り混じっていた。
「流石に……少し怖いですが……」
指先にぐっと力を入れて開けようとする。
しかし、扉はピクリとも動いてくれない。
「?」
よく見れば、引き戸の隙間からも床と同じようにびっしりと太い蔦が絡みつき、扉と枠を完全に固着させていた。
「ぐぬぬ……!」
両手で取手を掴み、精一杯引っ張ってみる。だが、相手は長年の歳月をかけて根を張った大自然だ。中々に手強い。
父上やセツナ様なら力任せに開けられただろうな、と思いつつ一生懸命に力を込める。
しかし、これ以上踏ん張れば自分の体重と踏み込みで床板が抜けそうだ。それを報せるかのように、木目の床がミシミシと悲鳴のような音を立て始めた。
仕方がない。
はぁ、とハバキリが諦めたかのように息を吐き、取手から静かに手を離した。
鋭い一閃。
眩い剣戟が空間を煌めいたかと思うと、頑丈な引き戸は斜めに無常にも両断されていた。まっすぐで、美しさすら感じさせる一撃。
幼く見えても、彼女自身がまた、強大な力を持った「鬼」であることを知らしめる刃筋だった。
バタン、と軽い土埃を立てて切断された扉が倒れていく。
「うぅ……すでに廃墟とは言え、申し訳ありません……」
カチリ、と鞘と鍔が小さく鳴る。
致し方ない手段だったとは言え、どこか罪悪感を覚えながらハバキリは足元に気をつけて部屋の中へ入っていった。
中へと恐る恐る足を運ぶ。
居間と思われる広い部屋とは違って、その部屋は二回りも小さな空間だった。
(住人の方にとっては、少し手狭だったのではないでしょうか……)
部屋の隅には、すでにボロボロに朽ち果てた布団と、小さな木造の机が窓の近くにちょこんと置かれていた。
机の上には書物や巻物が幾つも無造作に並んでいるが、それらも歳月によって風化し、少し触れただけで崩れてしまいそうな儚さを纏っている。
窓の隙間から流れてくる風が、静かに部屋を通り抜けていく。
部屋の隅には、刀を立てかけていたのであろう二本掛けの台座が残されていた。
これで、ここの住人が「武を嗜む鬼」であったことがハバキリの中で確信へと変わる。
「ふむ……ここに住んでいた鬼の御方は、一体どの様なお方だったのでしょう……」
いつ、どのような理由でこんな孤島に隠れ住んでいたのか。
鬼の里に伝わる古くからの忌み地という言い伝えと、何か関係はあるのだろうか。
部屋の中を再度、見渡す。
ふと、机の上に残された巻物に何が書かれているのかが気になった。
埃は被ってはいたが丁寧に結われている。保存状態も悪くはない。
息を殺し、震える手をそっと伸ばす。
少しずつ、慎重に解いていく。ちょっとでも余計な力を込めてしまえば、簡単に千切れて灰になってしまいそうだった。
ハバキリは全神経を集中させ、慈しむように古びた紙を広げていく。
そこには——短く、しかし強い筆致の墨で、ハッキリとこう記されていた。
「『私を許してくれ、コスモ』……?」




