公園の秩序 :約4000文字
のどかな昼下がり。子供たちの弾ける笑い声が、陽気な風に乗って公園に響き渡る。
男はベンチに腰を下ろし、ポケットからタバコとライターを取り出して辺りを見渡した。
芝生の上に座るカップル。犬の散歩をする老人。離れたベンチにはスーツ姿の中年の男。男と目が合うと、苦笑しながら軽く会釈をした。サボりなのかもしれない。
男は無視し、ボール遊びをする子供たちをぼんやり眺めながら、タバコをくわえた。
ライターを近づけ、ぐっと親指に力を込める。その瞬間――足元に青いビニールボールが転がってきた。
舌打ちを飲み込み、爪先でボールを子供のほうへ蹴り返す。
子供はボールを拾うと、男を一瞥することなく、くるりと踵を返し、駆け戻っていった。再び笑い声が弾ける。一方、男は顔をしかめた。
――礼どころか、頭一つ下げやしない。まったく、最近のガキは……。
離れていく小さな背中を見送りながら、男は指で銃を構え「パーン」と撃つ真似をした。
そのときだった。
「……えっ」
男の口から、くわえていたタバコがぽろりと膝の上に落ちた。
しかし、男は拾おうとせず、ただじっと目の前の光景を見つめたまま、視線を動かそうとしなかった。その倒れた子供から。
超能力? おれの能力が今、目覚めた? ……いや、そんな馬鹿な。ただの偶然だ。タイミングよく転んだだけだろう。すぐに起き上がる。
男はそう考えた。だが――。
「えっ、は?」
起き上がるどころか、また一人、さらにもう一人と、子供たちが次々と地面へ崩れ落ちていく。
――あ、そういう遊びか? でも、急に……それに、何か妙な……。
男は思わず身を乗り出し、目を凝らした。
と、そのとき――リードを引きずった犬が、男の目の前を猛然と駆け抜けていった。
その後ろ姿には『おれは自由だ!』と言わんばかりの喜びが満ちていた。
犬が走ってきた方向を見ると、そこには、リードを握っていたであろう老人が倒れていた。
――何かが起きている。
男はタバコとライターをポケットにしまい、ベンチから立ち上がった。
その瞬間、芝生でくつろいでいたカップルが、ぱたりと倒れた。
――狙撃……! いや、毒ガスか!
男はとっさに身を屈めた。
だが、この行動が毒ガスに対して効果があるのか? そもそも屋外で毒ガスなんてあり得るのか? 特に変な臭いはしない。空気の流れのせいか? そして、あいつらは気絶しただけなのか? それとも死んだのか? おれも……死ぬのか?
疑問が際限なく湧き上がり、心臓が激しく脈打つ。頭はパンク寸前だった。
男は荒い息をつきながらポケットをまさぐる。タバコ、タバコ……煙を一気に吐き出したい。いや、叫びでも何でもいい。今、この腹の中に溜まっているものを出さないと、気が狂いそうだ。
男は目的が定まらないまま、口を開いた。そのときだった。
「あ、あの……あなたは大丈夫ですか?」
背後からの声に、男は肩を震わせた。振り向くと、少し離れたベンチに座っていた中年の男が姿勢を低くしながら近づいてきていた。ズボンには土がつき、膝が震えている。
「ええ、まあ……特に異常はないみたいです」
「私もです。しかし、おかしい。人がバタバタと……あれ、死んでいるんですかね? それともドッキリ? そうだ! テレビだ! ははあ! テレビの企画ですよ、これは!」
中年の男は一人で納得した様子で、辺りをきょろきょろと見回し始めた。カメラを探しているのだろう。その目は見開かれているが、恐怖の色に染まり、盲目的だった。
確かに、ドッキリ番組の可能性もゼロではない。素人が右往左往する様子を映し、視聴者を笑わせる企画かもしれない。
だが、おそらく違うだろう。あれは死体だ。生きている人間には出せない、陰鬱で寂しげな雰囲気を纏っている。
ただ、自分以上に動揺するその姿を見て、いくらか冷静さを取り戻した男は、同意してやってもいいかと思った。しかし、中年の男が独り言のように話し続けるので、その機を逃した。
「いやあ! ふふふふっ! きっと、そうに決まってますよ。いやいやいや、悪質だなあ。ふふふん、えふふふ。私ね、従兄弟が弁護士なんですよ。訴えちゃおうかなーなんてねへへへ。いやー、もうほんと、ふう、焦ったなあ」
中年の男はそう言いながら、ポケットティッシュを取り出し、額の汗を拭き始めた。
「……あー、どうでもいいけど、ハンカチは?」
「ああ、持たないタイプなんですよ、私」
そう言うと、中年の男はポイッと丸めたティッシュを地面に捨てた。
その直後、前のめりに倒れた。
「え、あの……」
――死んでいる。
脈を確認したが、完全に途絶えていた。
なぜだ? 傷口はない。銃声も聞こえなかった。やはり、毒ガスなのか? じゃあ、なぜおれは無事なんだ? 何が原因だ。何か……これまでの出来事に共通点は……?
別に、みんな普通にしていた。ボール遊び、犬の散歩、ポイ捨て……ポイ捨て?
男はハッとして、視線を上げた。
そこには、公園の注意書きが書かれた看板があった。
『公園を利用される皆さんへ』
そう題された看板には、公園内における細かい禁則事項がびっしりと並んでいた。
不法投棄、芝生への立ち入り、犬の散歩、オートバイ、自転車、スケボー、キックボード、ボール遊び、タバコの喫煙、大声を出す、鳩への餌やり、トレーニング、電話、ベンチの長時間利用――
……多い。あまりにも多い。目眩がし、すべて読み切れないほどに。
サボり目的でこの公園を利用することは何度かあったが、気づかなかった。最初からこうだったのか? それともマナー違反する連中に怒り、ルールを追加していった結果なのか?
よく見ると、白い看板はペンキで塗られたようで、ところどころに塗りムラがある。追加のルールを上書きするために、何度も塗り重ねたのかもしれない。うっすらと、下に黒い文字が透けて見えた。
……いや、今はそんなことはどうでもいい。もし、これまでの出来事が公園のルールを破ったせいで起こったのなら、説明がつく。馬鹿げた発想だが、この仮説が正しいとすれば……タバコ……。
男は先ほどの自分の行動を思い返し、身震いした。その場で深呼吸を数回し、結論を出す。
とにかく、この公園から出る。原因がどうであれ、それしか助かる道はない。
男はゆっくりと静かに立ち上がった。まるで寝ている猛獣を起こさないように、そっと。
公園の出口まで、およそ百メートルといったところか。
奥まったベンチに座った自分を恨めしく思い、唇を噛んだ。
よし、一気に走りぬけ――いや、待て。
『トレーニング禁止』
男の頭に、その文字がパッと浮かんだ。
看板には、確かにそう書かれていたはずだ。そして、『トレーニング』には走ることも含まれているのではないか?
危ないところだった。さすがに歩くことは禁止されてないはずだ。ゆっくり行けば問題ない……はず。一歩、一歩、ゆっくり、慎重に……。
風が出てきた。木々がざわめき、不気味な雰囲気が漂う。いつの間にか、日が陰っていた。一雨来るかもしれない。
そう思った男が空を見上げようとしたとき――枝と葉が擦れる音に混じって、何かが転がる音が聞こえた。
「……あぶな!」
間一髪だった。さっきの子供たちが遊んでいたボールが、男めがけて転がってきたのだ。
触れれば『ボール遊びをしている』と判断されかねない。ボールは男をかすめ、そのまま駆けていった。
男はほっと息を吐いた。しかし、その瞬間だった。
――もう一個!?
二つ目のボールが、猛スピードで男の足元を襲った。男は尻餅をつきながら、ギリギリでかわした。
まるで魔物だ。園内を駆け回る二つのボールを見て、男はそう思った。
男はふらつきながら立ち上がろうとした。そのとき――。
――ライター!
立ち上がる拍子に、ポケットからライターが滑り落ちる。
「うおおう!」
男は素早く手を伸ばし、なんとかキャッチした。
危なかった。もし地面に落としていたら、『ポイ捨て』と判断されかねない。……判断? さっきから無意識にそう思っているが、いったい誰に? 誰が判断している? 神か?
男は空を見上げた。いつの間にか、黒い雲が鎮座していた。ただの雨雲ではない。異様に黒く、胸を押されるような威圧感があった。
まるで、数十人が順番に壺の中に悪口や罵声を吹き込み、それが割れてあふれ出た憎悪の塊。見ているだけで、不快感が込み上げてくる。
男は空から顔を背け、歩き始めた。
公園の外に出ると、男はその場で膝をついた。硬いアスファルトが食い込む痛みを感じたが、そんなことはどうでもよかった。
後ろを振り返る。
倒れた人々。その亡骸の奥に公園の看板が見える。
白い看板に書かれた文字は、この距離ではもうよく見えない。だからだろうか、それが呪詛のように思えた。
その後、あの公園は閉鎖された。原因は今もわからないまま。
それでも男は自身の体験を警鐘とし、人々に伝えようとしていた。
『ルールを守れ、命が惜しいなら』
男は訴え続けた。また、いつどこで同じことが起きるかわからないからだ。これは人類に対する神の怒りなのではないか。日が経つにつれ、そう思うようになった。
喉を枯らして叫んだ。しかし、聞く耳を持つ者はいなかった。
それも当然だ。かつての男自身も、その一人だった。
ポイ捨て、信号無視。ルールを守らない連中が、今はこれほど腹立たしい。
――クソめ。
男は誰かが捨てた丸められたティッシュを拾い上げた。
信号が青に変わるのを待つ。車は来ない。見通しがいいから、それはわかっている。
――それでも、おれはルールを守る。
男は横を通り過ぎる人の背を睨みながら、改めてそう心に誓った。そのとき――。
――なんだ……?
横断歩道の向こう側。空に、見覚えのある雲があった。黒々と重たく、不吉な影を落としている。空が淀み、悲鳴のような風が響いてきた。それとも、風のような悲鳴か。それがこちらに、ゆっくりと迫る。
――よし、いいぞ。
信号が青に変わった。
男は晴れ晴れとした気分で、軽快な一歩を踏み出した。




