謎ルール :約1500文字
お、来た、来た……。
ある朝。青年は、背後から近づくドタドタと優雅さの欠片もない足音と、荒い息遣いを耳にして振り返った。
いつもの男だ。
毎朝、スーツ姿のごく普通の会社員風の男が、短距離走のごとく、この道を全力疾走してくるのだ。
きっと、目的の電車に乗るためだろう――最初はそう思った。大人のくせに、そんなに焦るくらいなら早起きすればいいのに、とも。
だが、その男は必ず、この先の角を曲がると、ぜいぜい息を切らせながら速度を緩めるのだ。
それが、もう何年も続いている。
なぜ、あの男はこの通りだけ全速力で走るのか?
青年はいつしか、その理由が気になっていた。
もうじき高校を卒業し、春から大学生になり、寮暮らしを始める。あの男と会うことはなくなるだろう。
一度くらい聞いてみるのもいい。チャンスは今だけなんだ。無視されても、もう顔を合わせることはない。気まずい思いをすることもない。
そう考えた青年はこの朝、あの男を引止めようと決めていたのだ。
男が迫る。青年は男の進路上に一歩踏み出し、手を挙げて声をかけた。
「あの! ちょっとすみま――」
「ばっ! 馬鹿野郎! どけ!」
だが、あまりの剣幕に青年はたじろいだ。横に避けるつもりが、思わず後ずさってしまった。
男は速度を緩めたものの、避けきれず、青年は咄嗟に男の肩を掴んだ。
「ルール! ルールがあ! ああああ!」
男は体を揺すり、青年を振り払った。
やっぱり、おかしい人だ……。
青年はそう思い、口を歪めた。しかし次の瞬間、目を疑った。
男の顔がみるみる赤く染まっていく。唇を痙攣させ、眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、頬が膨れ上がった。皮膚の下に青い血管が浮き出し、頬だけでなく鼻も耳も、顎や顔全体が不自然に張っていく。丸い、その姿はまるで……。
――風船。
青年がそう思った瞬間だった。
轟音とともに、男の顔が弾け飛んだ。
肉片が四方八方に飛び散り、青年の頬に鞭で叩かれたような鋭い痛みが走る。頭から胸あたりまで温かい液体がべっとりとかかった。
咄嗟に手で顔を覆おうとしたが遅く、代わりに熱を帯びた空気に触れるだけだった。
首の穴から湯気を上げる男の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
それと同時に、通行人たちから悲鳴が上がった。その声がびりびりと、周囲の住宅の窓を震わせた。
そんな喧騒の中、青年はぼんやりとあることを思い出していた。
――ルール……。
そういえば、小学生の頃、横断歩道を渡るときに『白い部分だけを踏まなければならない。黒い部分は沼だから』なんて謎のルールがあったなあ……。
懐かしく、顔にかかった生温かい液体のせいか、意識がぼんやりとし、頬が緩んだ。
ああ、そうだ。これは夢だ。よかった……。ふふっ、他にも何か変なルールあったかなあ……。
――てはならない。
……今のは?
青年が耳を澄ますように、頭の中に意識を集中させると、まるで波紋が広がる水面からゆっくりと浮上してくるように、文章が浮かび上がってきた。
『着ぐるみに触れてはならない』
……ルール。あの男が叫んでいたのは、こういうことか?
じゃあ、もし破れば……でも、これくらいなら別に大したことは……。そもそも着ぐるみなんて、そこらへんにあるものじゃない。もし見かけたら全力で逃げればいいだけの話だ。
……でも、いつまで続く? 一生? そういえば、たまに変な行動をしている人を見かけるけど、あの人たちも、もしかして……。
――あ。
喧騒が接近と遠ざかりを繰り返す。未だ夢心地の中で、青年は空を仰いだ。
――してはいけない。
――してはならない。
――しなければならない。
――いけない。
――ならない。
流れる雲の間から星が顔を出すように、脳内に次々とルールが浮かび上がってきた。
口を開け、それらをただ嚥下しながら、青年は思った。
そうか、一つとは限らないのか。
この先、いくつのルールに縛られ、そして死ぬのだろうか……。




