ララライルクシラライネ :約2500文字
シェパーパーキンスの靴が大流行した年のことだった。
その少女も流行に乗り、エナメル質のピカピカの靴を履いていた。淡いピンク色のそれは、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。しかし、少女の顔は浮かない。母親と手をつなぎ、やや引きずられるようにして歩いているため、せっかくの靴もまるでファンデーションを塗るかのように土埃にまみれていく。
彼女たちが向かっているのは、峠の上にある病院。紹介され、藁にもすがる思いで訪れたのだが、どうも病院というよりは研究所といった雰囲気が漂っていた。
少女は何度も手を振り解こうとする。しかし、母親はそれをグッと握りしめ、歩みを止めない。けれど、母親もここに来たのは失敗だったかもしれないと、うっすら思い始めていた。
「あの、こんにちはー……」
おそるおそる扉を開け、中に足を踏み入れる。意外にも内部はまとも……とは言い難い。黒いソファーに観葉植物。ウォーターサーバー、白い蒸気を立てる加湿器。そこまでは普通だが、壁を這う丸出しの配管や謎の配線。ジジジジと不気味な音を立てる正体不明の装置。それらが建物の外観と調和しているせいで、むしろまともな部分が浮いて見えるのだった。
とはいえ、ここまで来たのだ。母親は迷いを振り切るかのように手早く受付を済ませ、二人、ソファーに腰を下ろした。
少し待つと、ボン!
突如、奥の部屋から爆発音が響き渡り、ドアが勢いよく開いた。
「どうぞ」
と、声だけが部屋の奥からした。
母親は立ち上がることさえ躊躇った。だが、受付嬢に促され、少女とともにしぶしぶと部屋の中へと足を踏み入れた。
しかし、すぐに後悔した。
大きな机には、色とりどりの液体が満たされた試験官がずらりと並ぶ。隣には、ブクブクと泡立つ鍋。ブブブブと異音を発しながら小刻みに震える装置。壁には、無数のチカチカと点滅を繰り返すボタンが並んでいる。壁や天井から伸び、絡み合う大小様々なチューブはもはやどことどこがつながっているのか、目で追いきれない。壁に博士の肖像画が掛けられているが、アインシュタインを意識したのか舌をべろりと出している。
「やあ、どうもどうも」
「……やっぱり帰ります」
「まあ、待ちなさい。修理、いや、治療は得意なんです」
博士が笑いながら大きなレバーを引くと、部屋の天井から伸びるホースが唸りを上げ、その先端からチョロチョロと色のついた液体がビーカーへと注がれた。それがジュースだと理解するまでに、少し時間がかかった。
だが、理解したところで、少女がそれを口にすることはなかった。この研究所もとい病院に足を踏み入れたときと同じく、怯えた目で博士と母親を見上げるばかりだった。
「ふむ……どうやらご機嫌斜めのようだ。楽しい気分になれる薬をご所望かな? それなら今、ちょうどいい薬があるんだ」
博士は膝を軽く曲げ、少女の目線に合わせるようにしながら、にっこりと笑って言った。母親がすかさず自分の体を使ってサッと遮った。
「違います。機嫌が悪いのは前からです。特にこんな胡散臭い……いえ、なんでもありません」
母親は少女の肩にそっと手を添えた。
「娘はちょっと前から、わけのわからない言語しか話せなくなってしまったんです。さ、喋ってみて」
『アラアラリリウルレレ』
「ね。ラウララだのリライルだの、調べてもどこのお医者様に行っても、わけがわからなくて」
「……ああ、そうですか。うーん、おや、可愛い靴だね。新しそうだ。買ってもらったのかい?」
『ラライウカラ、キララウ』
「歩いているうちに壊れたから、私が買ったんです。ああもう、どうしてしまったんでしょうか」
「では修理、いや、治療を始めますので、さあ、どうぞ二人ともその椅子に座って」
「え、もう?」
促されるまま、二人は部屋の中央に置かれた椅子に腰を下ろした。すると突然――ガチン!
椅子の側面から拘束具が飛び出し、頭、体、腕、足を一瞬で固定した。
「ちょ、ちょっと! 暴れないようにするためだというのはわかりますが、あ、あの、どうして私まで!?」
『ルルララララリリ! リラリラ!』
「落ち着かせるためだよ。ほら、一人だけ椅子に拘束しては患者が怖がるだろう」
「まあ、確かに……いや、逆効果な気も……」
『ロロルウイ』
「大丈夫、現にうまくいっているだろう?」
「……ええ、娘は落ち着いているみたいですけど、でも本当に大丈夫なんですか? どのお医者も顔をしかめるばかりで……」
『クラライトウラ!』
「ああ、大丈夫。最初に言ったとおり、得意だからね」
「……では信じます。娘の手を握ってても?」
『ラライモ』
「手? それは危険なのでダメだ」
「危険!? 危険って何をするつもりですか!? 娘に何かあったららららたたたじゃああおかないからら!」
「ええい!」
博士は懐から銀色の細長い金属製の棒を取り出すと、迷うことなく母親の側頭部に突き刺した。
博士がスイッチを入れると棒から電流が走り、母親は一瞬痙攣したあと静かに項垂れ、ピクリとも動かなくなった。
「いやいや、驚いた。危ないところだった。すごい力だ」
博士は大きく息を吐きながら、母親が座る椅子のひしゃげた拘束具に目をやった。
そして、少女の拘束を解く。
「終わりましたか?」
入り口のドアから、受付嬢型アンドロイドがひょっこりと顔を出した。
「ああ、なんとかな。さあ、この子を部屋の外へ。それから、この型番から購入者を調べて連絡してくれ。おそらく父親だろうがな。きっと大慌てでこの子を探していることだろう」
少女は、博士をじっと見上げた。
「……ママ、だいじょうぶなの? また会えなくなっちゃう?」
その問いに、博士はにこやかに笑い、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫だよ」
少女は何度か振り返りながら、受付嬢に連れられて部屋を出ていった。
博士は少女の背中を見送ると、憐憫の眼差しで母親型アンドロイドを見下ろした。
「……しかし、よくできている。新型、しかもカスタマイズされているな」
博士はアンドロイドの手の皮膚を軽くつまむ。その感触は、人間の皮膚とほとんど変わらなかった。
「娘のために金をかけて、より人間らしくしたのか。医者が見抜けなかったのも無理はない。きっと、母親の心の疲れとでも判断したのだろう。おそらく言語識別機能に障害があり、娘の声だけが変に聞こえていたのだな。しかし、娘の服も替えず、何日も歩き回っていたことを考えると他にも問題が……だが、関係ないな」
博士は机の上のビーカーを手に取り、一気に飲み干した。ふうと息を吐く。甘いジュースの香りが漂った。
「さあて、取り掛かるか。最初に言ったとおり、修理は得意なんだ」




