悲鳴 :約1000文字 :ホラー
黒ずんだ雲が漂う夕暮れ時、一人の青年が道を歩いていた。
ぼんやりと空を見上げる。そのときだった。突然背後から声が響いた。
――悲鳴。
彼はすぐにそれが女性の声だと気づいた。まるで鍵盤を乱暴に叩くように激情的で、ふざけ合いの延長で漏れたような軽いものではない。絶望と恐怖が入り混じった悲痛な叫びだった。
痴漢?
ひったくり?
それとも通り魔?
振り返りながら、青年の脳裏に次々と可能性がよぎる。回転する視界の端に、一瞬、電柱にもたれかかるように掲げられた看板が映った。
『不審者注意』
不吉な警告が、じわりと青年の胸を締めつける。
だが――誰もいなかった。
一本道の住宅街。左右には一軒家並び、見通しはいい。逃げ隠れする余地などないはずなのに、そこには何の異変も見当たらなかった。
青年はその場に立ったまま耳を澄ませた。だが、静寂が広がるだけ。
近くの家で強盗? あれはその住民の絶命直前の叫びだったのか? それとも庭に出て、空に向かって奇声を上げただけ? 思えば、狂気を孕んでいたような気がする。
もしそうなら被害者はいない。だが、青年は身震いした。
現像液に浸した写真のように、脳裏にぼんやりと浮かび上がる“見えない女”の姿。想像上のそれが輪郭を持ち始め、色濃くなっていく。
青年はぶるりと頭を振った。恐怖を追い払うように。
そして、前を向いて歩き出す。
一歩
二歩
三歩――
再び悲鳴が響いた。先ほどよりも大きい。
いや、違う。声量は変わらない。ただ、距離が近いのだ。
青年は素早く振り返る。
しかし、やはり誰もいない。
気のせいか? いや、二度目だ。
悲鳴に似ていただけで、機械か何かの駆動音? いや、あれは確かに人の声だ。
鼓動が速まり、喉が鳴った。
青年は再び歩き出す。今度は逃げるように。
一歩
二歩――
また悲鳴が聞こえた。それも近くなっている。
青年はまた振り返るが、そこには何もいない。
なぜ? 声が近づいているのに、なぜ姿が見えない?
ざわつく胸を押さえ、青年は前を向き、足を踏み出した。今度は走るつもりだった。
一歩――
その瞬間、悲鳴が響いた。その吐息の温度すら感じ取れそうなほどの距離で。青年は鼓膜はおろか、体を引き裂かれるような激痛を感じ、反射的に耳を塞いだ。
だが、無駄だった。すぐに何も聞こえなくなったのだ。
何も。悲鳴も。地面に膝をついた音も。震える手で近くの小石を拾い、落とした音さえも。
自分の悲鳴すら、もう聞こえない――そう気づいた瞬間、耳の中からドロリと生温かいものが流れ落ちた。
震える手で耳に触れるも、その感触さえどこか遠くの出来事のように思えた。
いったい何が起きたのか。誰かに助けを――。
そう思い、青年は辺りを見渡した。
そのときだった。独特な匂いを嗅いだ。
どこか遠くの店から漂ってきたような香り。淡く、鼻をくすぐった。
それは意識を逸らして少ししたあと、より濃くなって再び鼻腔を満たした。
まるで、少しずつ迫ってくるように……。




