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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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癒しの音          :約1500文字

 夏の終わりの夜、男は橋の上から川を見下ろしていた。

 風が強く吹くたび、金属製の欄干が下手くそな弦楽器のような音を奏でる。男はそれをぼんやりと聞き流し、風が止むと目を閉じ、耳を澄ませた。

 虫の鳴き声。魚が跳ねる水音。川辺の雑草がそよぐかすかな音。そして、川のせせらぎ。

 その調和が心地よく、男は思わず頬を緩める。ヒーリングミュージックというやつだ。

 眠れぬ夜、男はこうして川へやってきては、自然の音に聞き惚れる。そして、程よく眠気が満ちたら家へ帰る。それが男の習慣だった。

 ただし、雨の日は来ない。濡れるのが嫌だからではない。雨音がテープレコーダーの録音を邪魔するからだ。カセットテープなど時代遅れだと自覚はしている。だが、増えていくテープの数を眺めるのは、何より楽しかった。


 ――眠くなってきたな。そろそろか……。


 男は欄干に体を預け、目を閉じたまま深呼吸をした。

 引き寄せられる感覚がする。

 次に落ちる感覚。

 沈む感覚。

 そして、浮遊感……。

 すべてが心地よかった。


 これは、自分の感覚なのか。それとも、すでに夢の中なのか。

 まぶたの向こうに女性の姿が見えた。

 可愛らしい女性だ。顔が赤い。少し酔っているのかもしれない。声をかけると彼女は少し驚いたが、すぐに微笑んだ。

 親しげに話をする。やがて手を取り、歩き出した彼と彼女。そして……



 ――星……?


 まぶたを開くと、目の前に広がっていたのは、川ではなく夜空だった。寝起きの鈍い脳が現実を把握するよりも早く、体が冷えていることに気づいた。

 地面の感触が背中に伝わる。指を動かせば水を掻いた。


 ――どこにある。


 動揺が押し寄せた。男は跳ね起きると、濡れた手でポケットを探った。

 そして辺りを見渡し、ようやく近くに落ちているテープレコーダーを見つけると、男の顔にほっとした笑みが戻った。


 ――ここは……。


 川辺。だが、先ほどいた橋は見えない。下流か上流か。どちらだろうか。橋の上からここまで来た記憶もない。

 背中が痛む。服は濡れており、泥もついている。今、何時だろうか? 遠くから、ちらほらと人の話し声が聞こえる。……耳障りだな。今夜はもう十分だ。

 状況を整理した男は体についた土を払い、歩き始めた。


 家に帰ると、服を脱ぎ、湯船に浸かる。

 手でお湯を掬い、トポトポトポ……と落とす。この音もまた心地よい。

 音を楽しみながら、男は帰り道で耳にした言葉を思い返した。


『川の下流で……』

『女だってよ、女』

『まだ若いそうよ』

『いやねえ。ほら、何か月か前にもあったじゃない?』

『自殺でしょ』

『橋から飛び降りたんだよ、きっと』


 川の近辺の住人たちの会話。繰り返され、そして折り重なり合い、不快なノイズと化す。

 男は潜り、それを遮断した。

 静かな空間が戻ってきた。泡と思考だけが浮かんでいく。


 女は橋から飛び降りた。


 ……いや、違うな。

 首を絞められながら、水に沈められたのだ。

 声をかけられ、正常性バイアスに身を委ね、手を引かれ、落とされ、沈められ、そして浮かび、流された。

 女はひどく抵抗しただろう。手足をバタつかせて。

 音がする。

 ばしゃばしゃ。

 ばしゃばしゃ……。


 風呂から上がると、男はタオルで体を拭き、テープレコーダーを手に取った。

 再生はしない。今夜はすでに眠い。十分だ。

 男は開閉ボタンを押して、カセットを取り出した。そして、クローゼットを開け、中にある二つの箱のうち、一方を開けて、中へ放り込んだ。カチャリ、と中のテープとぶつかる音がした。

 意識を失い、気づいたら別の場所にいる。たまにあることだ。そういう日のテープは、このように別にする。

 これは贈り物。知らない自分からの、特別な……。

 “彼”は自己主張しない。自分の声が入らないようにただ、淡々とこなす。

 夢遊病、別人格。

 何にせよ、恐れていたのは最初のうちだけ。いつの間にか、時々もたらされる録音こそが目的になっていた。


 男は目を閉じ、耳を澄ます。

 部屋は静寂そのものだったが、男の耳の奥では水の跳ねる音と女の悲鳴が響いていた。

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