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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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吐いた言葉を飲ませてください:約2000文字 :じんわり

 私は過去に自分が口にした言葉を思い出しては、後悔することがよくある。

 小学生の頃から今に至るまで、人を傷つけたかもしれない言葉の数々。子供の頃はズケズケと物を言うことや、傷つけることで相手の上に立ったような気になっていた。愚かだった。

 成長してからは、そんな浅はかな考えは捨てたが、それでも怒りや悲しみの衝動でひどい言葉を吐いてしまったことがある。何気なく、考えが足りずに口にしてしまったことも。

 もっとも、これは多かれ少なかれ誰もが経験していることで、大したことではないかもしれない。言われた当人に確認すれば『そんなことあったっけ?』『気にしてないよ』と笑われるかもしれない。実際、そう言われたこともある。

 けれど、それでも時折どうしても自責の念に囚われてしまう。誰に聞かせるでもなく、ただ念仏のように謝罪の言葉を繰り返す。それらはどこにも届かずに空気に溶けて消え失せるのだ。

 人は『前向きに生きろ』『強くあれ」と言い、自分を哀れむなと叱るように諭す。だけど、そう思うようにいくものだろうか。

 痛む胸と叫び出したい衝動を抑え、眠りにつく。毎日のように……。


 ……夢を見ている。靄がかかった空間、一人の男がドアの前に立っている。


「どうぞ」


 男は微笑みながらドアを開けるよう促した。

 私はおそるおそるドアを開け、中に足を踏み入れた。

 すると、広々とした空間が私を迎え入れた。ガラス張りの天井の向こうに青空が見え、日の光が降り注いでいる。床はアイボリーと黒の大判タイル。影がかかっている薄紫色の壁には、本が敷き詰められていた。


「これは……?」


 そして、綿飴のような白い塊がいくつもふわふわと浮かんでいた。動きに規則性がなく、まるでクラゲのように漂っている。生きているのだろうか。


「あなたが吐いたことを後悔している言葉たちですよ」


 男は穏やかに言った。


「……思ったより、可愛らしいですね」


 他に言葉が思いつかなかった。でも、本心だった。私は近くにあったものを掴み、じっと見つめた。


「どうぞ、飲んでいいんですよ」


「え?」


「飲み込めば、その言葉を『言わなかったこと』にできます。どの言葉かは飲んでからわかります」


 願ってもないことだった。言葉を選べないと言うが、なかったことにできるのならどれでもいい。私は口を大きく開け、一口齧った。

 その瞬間、全身が拒絶した。

 なんという味だ。口に入れた途端に広がる不快感、そして強烈な痛み。吐瀉物に砕いたガラスの破片を混ぜ固めたみたいだ。

 とても飲み込めるものではない。それでも、私は懸命に押し込んだ。これを飲みさえすれば言わなかったことにできる。もう思い出して悩まなくて済むことに比べたら、これくらい……。

 私は悶えながら、齧っては必死に空気と共に押し込んだ。でも、やはり耐え切れず吐き出してしまった。


「げほっ……ごほっ……!」


 ……私はなんて弱い人間なんだろう。

 咳が収まると、自責の念で体が強張り始めた。私は膝を抱え込み呻いた。口の中の不快感が徐々に薄れていく。それさえも浅ましく思えた。


「頑張れば、全部飲み込めるかな……」


 私はふわふわと浮かぶ白い塊たちを見上げ、男に訊ねた。


「全部飲み込んだら、きっと死んでしまうでしょうね」


 確かに……。一つであれほど苦しいんだ。当然かもしれない。でも、それだけ人を傷つけてしまったということだ。言わなくていいことを言ってきたんだ。


「そんなものを体の中に入れたままにしておくのも、無理ですよ」


 男はゆっくりと指を伸ばし、浮かぶ塊をそっと突いた。


 ――あ、そうか。


 私は人を傷つける言葉を吐いた。けれど、その中には吐き出したことで自分の心を守ったものもあったのかもしれない。

 怒りや衝動に駆られて放った言葉。もし吐き出さずに溜め込んでいたら、私の心を切り刻んでいたかもしれない。


 それでも、どうしても飲み込みたい言葉はある。でも、できない。取り返しのつかないことは、取り返せない。

 だけど、繰り返さないことはできるかもしれない。


「そろそろ目覚めますよ」


 男が言った。私はいくつか塊を抱え、持ち帰れるかと訊ねた。男は笑い、「無理です」と答えた。私も少し笑った。


 ……目が覚めた。

 喉がやけに痛む。たぶん、部屋が乾燥しているせいだろう。

「あー」と試しに声を出してみた。うん、大丈夫そうだ。


 目を閉じて、頭の中であの白い塊を思い浮かべる。そのうちの一つを口に咥え、ぎゅっと噛んだ。

 口の中に苦味と痛みが広がっていく気がした。


 母に吐いた、自分を産んだことを否定する言葉。

 友人を拒絶するような言葉。

 無神経な言葉。

 ただ傷つけた言葉。


 今の私には、それらすべてを肯定することはできない。

 でも、何もないよりは連れがいるのも悪くないのかもしれない。

 これを結論にするのはまだ早い気がするけど、想像の中で白い塊たちに細い紐を結びつけ、風船のように手に持ってみる。


 ――あっ。


 ふわりと体が少し浮いたような気がして、頬が緩んだ。

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