ヒマワリ畑 :約3000文字
子供の頃、私は近所のヒマワリ畑に行くのが好きだった。
広大な畑にふさわしく、巨大なヒマワリが咲き誇っていた。(私が小学生だったから、そう見えたのかもしれないが)
私の背丈よりもずっと高いヒマワリの間を掻き分けて中に入り、駆け回った。
走り疲れて見上げれば、ヒマワリたちは私に微笑みかけてくれる。風が吹くと、くすぐったそうに体を揺らし、ざわざわと笑い声を立てるのだ。
ここは私だけの秘密の庭。何もかもが私の味方をしている。
あの頃は、本気でそう思っていた。
そんな私の心情に変化が生じたのは、ある夏の日のことだった。
いつものように畑に足を踏み入れようとした瞬間、急に畑の中から手が伸び、私の腕を掴んだ。
――しまった。
私は反射的に目をぎゅっと閉じた。畑の持ち主に見つかり、叱られると思ったのだ。
怒鳴り声が降りかかるのを覚悟して身を固くした。だが、聞こえたのは怒号ではなく、ぐいっと腕を引かれる感触だった。
次の瞬間、私はヒマワリの奥へと引きずり込まれた。
――女の子?
妙に思い、そっと目を開けた。
そこにいたのは、薄い水色のワンピースを着た女の子の後ろ姿だった。
身長は私と同じくらい。彼女は一言も発さぬまま、私を引っ張ってヒマワリの中をどんどん進んでいく。
やがて、ふいに立ち止まり、私の腕を放した。
そして振り返り、にこりと微笑んだ。
――かわいい。
ヒマワリの妖精だと思った。本気で。
私が見惚れていると、彼女は突然駆け出した。姿を消したかと思えば、ひょっこり現れ、また笑う。
――かくれんぼだな。
楽しかった。じゃんけんもせず、私が鬼役に決まったかくれんぼは、やがて鬼ごっこに変わり、私は夢中になって彼女の背中を追いかけ続けた。
私の笑い声が青空の下、ヒマワリたちと共に揺れ、踊った。
そう、本当に楽しかったのだ。あの瞬間は。
だが、しばらくすると、ふいに彼女が立ち止まった。
「捕まえた!」
私は息を切らしながら、彼女の背中にポンと触れた。
だが、彼女は何も反応しなかった。
どうしたのだろう? そう思った瞬間、彼女はゆっくり振り向いた。さっきまでの笑顔は消え、無言のまま地面を指さした。微動だにせず、ただ一点を。
私の背筋に、冷たいものが這い上った。思えば、彼女は一言も声を、笑い声すら発していなかったのだ。
一つ綻びを見つけたら、また一つ。不安が穴の中から顔を覗かせる。
私の腕を掴んだ手、さっき触れた彼女の背中。そこに体温を感じなかった。冷たさも、熱さも、何も……。
私はゆっくりと後ずさりし、そして一気に踵を返した。脇目も振らずに、ただひたすら走り続けた。振り返れば、彼女が追いかけてきている。そう思ったのだ。
そして、捕まったら最期。このヒマワリ畑から出られなくなる。いや、もうすでに出られないのでは……。そんな考えが頭によぎり、涙が込み上げた。鼻をすすりながら、私は必死に駆け続けた。
すると急に景色が変わり、解放的な空気が肺に流れ込んだ。ヒマワリ畑から出ることができたのだ。
私は膝に手をつき、大きく咳き込んだ。ふと気づけば、辺りは夕暮れだった。茜色の光に照らされ、影が長く伸びている。
――助かったのか?
意外とあっけないな。そんな余裕が胸を満たした。あるいは虚勢だったのかも。
私は振り返り、息を整えながら目を凝らした。
ヒマワリの茎と茎の間、その暗がりの中に彼女の姿を探した。
白んだ冷たい目で、私をじっと見つめているのではないかと思ったのだ。まるで檻の中の獣のように――。
想像し、身震いした。だが、それはただの想像に過ぎなかった。
彼女の姿はどこにもなく、私はほっと息をついた。
大丈夫だ。彼らが彼女を閉じ込めている。私を守ってくれる。そう、ヒマワリたちが……。
ヒマワリを見上げた。その瞬間、背筋が凍った。
今まで微笑みかけてくれていたはずの彼らは、よく見ると、ところどころ虫に食われていた。
――虫だ。
背筋をぞわりと悪寒が走り、肌が粟立った。
その瞬間、体のいくつかに奇妙な感覚が現れ始めた。
おそるおそる視線を下げると、幼虫のようなものが数匹、私の腕や服の上を這い回っていた。
そのうちの一匹と目が合う。
まるで「やあ」とでも言うように、ちょこんと首をもたげた。
私は甲高い悲鳴を上げ、滅茶苦茶に振り払った。
どうして今まで気づかなかったのだろう。湧き上がる嫌悪感を必死に押し殺し、私はもう一度ヒマワリを見上げた。
希望にすがるように。今のは何かの間違いだった信じたくて。そう、私は彼らのことを嫌いになりたくなかったのだ。
ちょうどそのとき、一匹のハエがヒマワリの花弁に止まった。
――首吊り死体。
少し枯れ、うつむくその姿が、そう見えた。
それ以来、私がヒマワリ畑に行かなくなった。
ヒマワリに近づくことすらなくなった。
虫にも触らなくなった。
幽霊の存在を否定し、鼻で笑った。
男の子だけと遊ぶようになった。(思春期を過ぎると、また女の子と遊ぶようになるわけだが)
思えばあの瞬間、私は大人へ一歩近づいたのだ。その証拠に、家に帰った私はいくつかの古びた玩具とキャラクターものの靴下をゴミ箱に捨てた。
そして、あの女の子のことは記憶の奥底に封印したのだった。
それがなぜ、今になって思い出したのか。
それは大人になった私が、今まさに車を走らせ、あのヒマワリ畑に向かっているからだ。
とうに宅地にでもなっていると思っていたが、そこにはあの頃と変わらぬヒマワリ畑が広がっている。
雨風に晒されたせいだろうか、ボロボロのプラスチックのバケツが転がっている。農具は錆びつき、畑はひどい状態だが、記憶の中の景色とどこか重なっていた。
おそらく、私が子供だった頃から、ここはずっと人の手が入らぬまま放置されていたのだろう。
私は荷物を抱え、畑に足を踏み入れた。あの頃に比べ、私はずいぶん背が伸びた。だが、それでもここのヒマワリには敵わない。やはり、相当に大きかったのだ。
日はすでに落ち、あたりは闇に包まれている。しかし、畑に一歩入った瞬間、あの頃の匂いが、肌を撫でる日差しの温もりが鮮やかに蘇った。
一歩、一歩、記憶をなぞるように、死臭の迷宮を進む。女の子が指さした、あの場所を目指して。
……見つけた。
畑の奥、少し開けた場所。ここに間違いない。あの子が指をさしていたのは、ここだ。
私は荷物を地面に降ろし、持参したスコップで穴を掘り始めた。ただひたすらに深く、深く。
……何かに当たった。
石ではない。私は膝をつき、慎重に土をかき分けた。
そして、私は思わず息を呑んだ。
あ、ああ……。あった。
骨だ。
それも小さな――子供の骨。
……ここに来てよかった。思い出せて、本当によかった。女の子の骨はあの日からずっと……いや、それよりも前からここに埋まったままだったのだ。誰にも見つからずに、ずっとここに……。
あの子は誰かに自分を見つけてほしかったのだろう。だからあの日、私を畑に引き入れた。伝えたかったのだ。自分はここにいると。
私は大きく息を吐き、空を仰いだ。
ヒマワリたちが、私を見下ろしている。萎れ、頭を垂れるその姿に、もう嫌悪感などなかった。
私は、そこからさらに深く穴を掘った。
そして、妻の遺体を投げ入れた。
何年経っても、ここなら見つかることはないだろう。




