治療 :約3000文字
真っ白な椅子。真っ白な机。
真っ白な教室。真っ白な服。
真っ白な心の子供たち。
先生の問いかけに、「はい! はい!」と元気よく手を挙げる少年少女たちの中で、その少年は机に頬杖をつき、彼らの伸びた指先をぼんやりと眺めていた。
一瞬、まばたきの合間に、それが木の枝に見えたのは、少年の想像力のせいだ。寝惚けていたわけではない。少年は知っている。もちろん彼らも。自分たちは、いずれ木になるのだと。逃れられない病であることを。
少年はため息をついた。だが、絶望しているわけではない。その病について告げられたのは、物心がつくかつかないかの頃で、衝撃も何も、記憶そのものが薄い。もう慣れた。それに、自分一人ではないという安心感もあった。
同じ病の仲間たち。そして、治療法を探してくれる先生たち。この授業も、自分たちを退屈させないための配慮なのだろう。知ることは楽しかった。たとえ、それがいずれ無駄になるとしても。しかし……。
――治らない。
少年がそう気づき始めたのは、自分たちが成長するにつれ、授業の内容が少しずつ変わっていったからだ。
『木になることは決して不幸ではない』。そんな話が、授業内容のところどころに挟まれるようになった。
これは刷り込みだ。他の子は気づいていないのだろうか? そう思うと、ふいに孤独感と恐怖が込み上げてきた。
それを押さえながら、少年はあるとき意を決して先生に訊ねた。
「ねえ、先生」
「なんだい?」
「先生たち大人は、どうして木にならないの?」
先生は微笑み、少年の頭を大きな手で撫でた。そして、「木になることは素晴らしい、誉れなんだよ」と優しく言った。
だが少年は、反論を許さないというような奇妙な圧を感じ、それきり病気について訊くのをやめた。
ため息の回数は増えたが、落胆したわけではない。そもそも、外の世界も、健康な子供も知らないのだ。羨むことすら知らない。
ただ、それゆえに少年は願っていた。一度でいいから、外の世界に出たい。
毎日の授業の中で、実験の中で、いつも心のどこかで祈っていた。毎日、毎日、毎日……。
――偉大なるこの星様。大自然様。どうか、僕の願いを聞き届けてください……。
無垢な祈りは、思いがけず届いた。神にか、それとも時計の針に。
ある日、子供たちは全員、窓のない飛行機に乗せられ、どこかへ運ばれた。
ドアが開くと、眩しい陽光の下、先生が立っていた。
両手を広げ、光を背負って立つその姿は神々しくさえ見えた。戸惑ったのは少年だけではない。他の子供たちも同様に、目を見開いたまま動けずにいた。
先生はにっこりと微笑み、言った。
「さあ、競争だ! 走りなさい!」
そして、手を叩いた。とても大きく、乾いた音に肌がビリビリと震えた。少年は状況がわからず、立ちすくんでいた。だが、目の前を駆け抜ける影を見て、体が前に傾いた。次いで、遠ざかる背中にハッとし、足に力を入れる。
――行かなきゃ。
次々と飛び出していく仲間たちに、少年は遅れて走り出した。飛行機を飛び出し、太陽の下、大地を踏みしめた。
初めての外の世界。太陽の光、風の匂い、土の感触。圧倒的な情報量に頭が追いつかない。気分は高揚し、目がぐるぐると回る。
少年は走りながら大きく息を吐き、思考を絞った。
――今は順位が大事だ。
少年は足には自信があった。自分とほぼ同時に飛び出した子供たちは、すでに置き去りにし、四番目を走っていた。
出遅れたことを悔やみながらも、歯を食いしばり、腕を大きく振った。足の裏でしっかりと大地を捉え、蹴り上げる。
前を走る三人も速い。なかなか距離が縮まらない。
――何か、チャンスはないか?
そう思ったとき、前を走る二人がつんのめった。
研究所にも運動スペースはある。しかし、ここは研究所の床と違って荒い。そのせいだろう。少年は好機ととらえ、一気に加速した。二人を抜き去り、残るはあと一人だ。
背中が近づく。まだ遠いが、このペースならいける。
そう思った瞬間だった。急に、膝がガクンとなった。
気を抜いた。いや、そうではない。しっかりと地面を踏みしめて走っていたはずだ。
――何か、何か変だ。
少年は足元を見た。その瞬間、体が凍りつきそうになった。足から硬そうな根が生えてきていたのだ。そして、その根は少年が踏み込むたびに、グッ、グッと地面に刺さる。少年を留めようとするかのように。
あの二人もそうだったのか。少年はそう悟った。だが、それが諦めの理由にはならない。
少年は必死に抗った。
バランスを取り、地面を穴だらけにしながら、走る。
一番になりたい。
それに、この荒野の先に何があるのか見たかった。
そして、少年はついに、前を走る子と横並びになった。
目が合い、互いにニヤッと笑う。
言葉は交わさない。必要ない。もとより、荒い息の他に口から出せるものはなかった。
少年が一歩、前に出る。
すると彼も追いつき、また一歩前へ。互いに譲らない。
少年は精一杯腕を振り、走った。そのとき、隣の彼が「あっ!」と声を上げた。
その理由に少年自身も気づいていた。濡れた紙のように、皮膚がボロボロと剥がれ落ちていっているのだ。
――構うもんか。
少年は足裏を思いきり地面に叩きつけて走った。根が折れる音がし、幾分か走りやすくなった。
視界の端から、隣で走る彼の肩、腕、手と順に消えていく。それでも少年はスピードを緩めなかった。この太陽と青空の下、どこまでも走っていける気がしていた。みんなも、きっとそうに違いない。そう思い、少年は走りながら振り返った。
もう誰も後ろを走っていなかった。
最後に抜かした彼も。みんな立ち止まっていた。
足裏だけじゃない。彼らの膝や太ももからも根が伸びていた。
だが、もう誰もそれを拒んでいなかった。
ヒーロー、お姫様、ピース、ファイティングポーズ、そしてグーサイン。みんな、それぞれ好きなポーズをとって、固まっていた。彼らは木になったのだ。
少年は立ち止まり、その光景を眺めた。
足から根が地中に伸びていくのを感じる。
まだ皮膚が残っている部分を擦ると、その下から頑丈そうな木の肌が現れた。
体が固まっていく。
もう、足は動かない。
――ポーズ……。
少年は人差し指を立てた。
――僕が一番……ううん。
『この指とまれ』
――みんな、きっとまたいつか……。
「このエリアもだいぶ進んできたな」
オランウータンたちは顎に手を当て、少年たちが映るモニターを見つめていた。
かつて、地球は人間が支配していた。しかし、人間は環境を破壊し、やがて滅びた。荒れ果てた大地に残されたのは、実験によって知性が飛躍的に向上した彼らオランウータンたちと、環境に適応したわずかな生き物だけ。そして、科学だ。
ただの木をいくら植えても、この渇いた大地には根付かはない。そこで、彼らは人と木の混じり物を作った。栄養を蓄え、時が来れば樹化し、大地に根付く。
試みは成功し、地球の治療も、もうあとわずかなところまで来ていた。
オランウータンたちは手を叩き、互いを褒め称えた。もうじき大自然を謳歌し、この星の完全なる支配者となる。先祖の願いが、ついに叶うのだ。
しかし、彼らは知らない。
眠りには目覚めがあることを。
木になり、成長を続ける子供たちは、いずれ目を覚ます。新たな種族として、頑丈で巨大なその体で、この星に君臨することになるのだ。




