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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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肌             :約2000文字 :スリラー

 僕は、ただ触れてみたかった。彼女の美しい肌に。

 手を伸ばすたび、彼女は水の中でゆらりゆらりと楽しげに舞う。僕をからかうように。手が届かないことがわかっているんだ。


「意地悪だね、君は……」


 ため息を一つつき、僕は気持ちを切り替えた。手提げ袋を開き、狙いを定めると、ふふっと笑いが漏れた。だってマジシャンみたいだから。耳を掴み、取り出したのはウサギ。学校の飼育小屋からこっそり持ち出してきたものだ。

 ほらほら、暴れちゃ駄目だよ。三、二、一……。川の中に放ると、白い毛の塊はバタバタと水を蹴り、きょろきょろと周りを見渡す。どこに向かって泳いだらいいか、考えてるみたいだ。

 けれど、次の瞬間、水面が大きく波立ち、水飛沫が上がり、ウサギは姿を消した。


 彼女が食べたのだ。

 でも、まただ……今日も、彼女の姿を見られなかった……。


 彼女と出会ったのは一週間くらい前。海に繋がるこの川に迷い込んできたのだろう。僕が見たのは背ビレだけ。だから種類も性別もわからないけど、僕は彼女を『女性』だと思っている。だって、彼女は美しいもの。

 初めてのときは、冷凍庫にあった豚肉をあげた。カチカチに凍っていたので、日向に置いて溶けるのを待っていると、彼女は背ビレで円を描きながら催促するような仕草を見せた。

 次にあげたのは、近所のお寺の池にいた鯉。網ですくい上げ、鋏で頭を突き刺して動かなくなったそれを川に放ると、彼女は水飛沫でカーテンを作って、すぐに食べた。手に入れるのが楽だったので、その後もしばらく鯉を使った。

 そして今日のウサギ。今回こそ、彼女の姿を見られると思ったのに、駄目だった。彼女は食事を見られるのが恥ずかしいのだろうか。給食以外はいつも一人でご飯を食べているから、僕にはよくわからないな。

 でも、もっと大きな餌ならどうだろう。一口で食べられないほどのものを――。


「ねえ、ここ?」

「うん、ここだよ」


 翌日、僕はクラスメイトの健太くんを川に連れてきた。「面白いものが見れるから」と誘い出したのだ。

 健太くんとは親しいわけでもない。嫌いでもない。少し鈍いところがあるので、僕の意図に気づくこともないだろうと思ったんだ。


「なんか、ここ臭いね」

「川だからね、そんなものだよ」


「で、何がいるの?」

「そこにいるよ、そこ」


 健太くんが屈んで、僕が指差すほうを覗き込む。Tシャツの裾がめくれ上がり、白いブリーフが少し見えた。僕はちょっと嫌な気分になり、視線を彼の頭に移した。

 ああ、旋毛がちょうどいい目印だ。僕はランドセルの中から、図工室から持ち出した金槌を取り出した。


「うっ!」


 頭を殴ると、健太くんは呻き声を上げ、前のめりになった。

 さすがに一回じゃ川に落ちないか。あ、そうだ。次は亀をあげてみようかな。背中を丸める健太くんを見て、そう思いついた。

 まだ元気そうなので、僕はさらにもう一度、二度と金槌を振り下ろした。これ結構楽しい。何かが割れて潰れて。回数なんてどうでもよくなった。

 健太くんは殺虫剤を浴びた蝿のようにピクピクして、ついに動かなくなった。

 僕がしゃがんで、その体をずりずりと川へ押し込む。ザブン! という思ったよりも大きな音とともに、水しぶきが顔にかかった。僕はすぐに顔を拭い、川に目をやった。きっと、これで彼女が姿を見せてくれるはず――。


 彼女がいない。

 どうして? 

 さっきまでそこにいたのに。欲しがっていたじゃないか。背ビレで円を描いて応援してたじゃないか。

 音に驚いたのかな……。

 そのうち、健太くんの体はぷかぷかと浮きながら、下流へ流れていった。


「……ぶふっ、あははははは!」


 ちょっとお尻を出したその姿がなんだかおかしくて、笑いが込み上げてきた。


「あはははははーあ……」


 自然と大きなため息が出た。こういうのなんて言ったかな。骨折り損の? まあ、なんでもいいや。

 笑いすぎたせいか、頭がぼうっとする。それに少し痛いや。深呼吸でもしよう。

 僕は胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「うっ……」


 鼻の奥を刺されたような臭いがした。腐った臭いだ……。目がじんじんする。僕はまぶたを閉じて鼻をつまんだ。


 ……なんだろう、この音。


 暗闇の中で、音だけが浮き上がって聞こえる。風に混じる、羽音のような不快な音。

 まぶたを開けると、近くの茂みからふわんと、燃えカスみたいに黒い粒が空に舞い上がったのが見えた。

 おそるおそる茂みに近づく。すると、黒い粒が一斉に飛び上がった。

 蝿だ。蝿。蝿。蝿。蠅。蠅!

 蠅たちは僕の鼻の穴や耳の穴に入り込もうとしてきた。

 僕は手を振り回し、必死に追い払った。ほとんどは逃げたけれど、何匹かは『諦めないぜ』って言っているように、しつこく僕の周りを飛び続けている。

 でも、そんなことどうでもよかった。


 ……これは、いったいどういうことなんだろう。

 蝿が群がっていた場所には、彼女にあげたはずのウサギや鯉が、ぐちゃぐちゃに重なり合っている。

 どうして?

 みんなが白い目で僕を見ている。

 どうして?

 羽音が近づいたり遠ざかったりしている。

 どうして?

 なんだか頭がぐわんぐわんする。ひどく気持ち悪い。

 誰か……助けて、誰か……。

 彼女は……? 彼女、彼女、彼女……。

 いない。

 どうして?

 彼女は――。


 僕は、自分の指先から肘までをゆっくり撫でた。

 ぞわりとするその感触に、ようやく彼女の肌に触れられた気がした。

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