適性 :約1500文字
夜の閑静な住宅街。帰宅途中、私はふと窓が開く音に気づき、顔を見上げた。
前方のアパートの二階のベランダの窓だ。住人が現れた。男。タバコを吸うのか、それとも洗濯物を取り込むのか。何にせよ、あまりジロジロ見るものではない。そう思って目を逸らした。
「おい、後ろ!」
突然の声に、再び顔を上げた。さっきの男だ。どうしたのか。慌てた様子で私の背後を指差しながら叫んでいる。
後ろ――車か何かだろうか。そう考え、私は道の端に寄りつつ振り返った。
そこに男がいた。だが、ただの男ではないことは一目でわかった。背筋が凍るような鋭い眼光と、不気味に歪んだ口元。そして、その手にあるあれは……日本刀だ。
男が一歩近づいた。街灯の下に出ると、シャツの柄だと思っていた黒い模様が血であることに気づいた。
距離を隔てて向かい合う私と男。もし私も刀を持っていれば、さながら映画の決闘シーンだろう。だが、この手にあるのは通勤用の鞄だけ。先ほどから脳が危険信号を鳴らし続けている。
場の空気が重い。男の手にある刀は一本だが、見えない複数の刃先が私を取り囲み、自由を奪っているかのようだ。
男が一歩踏み出す。さらにもう一歩。さらに――男の体を再び影が覆い、刀の輝きが消えたその瞬間、ふと頭中に言葉が浮かんだ。
――背を向けて走れ。
その声に従い、私は走り出した。日本刀はそれなりに重いはず。持ったまま速く走るのは難しいだろう。
だが、後ろをちらりと振り返ると、男は距離を縮めていた。
――まだ追いつかれるな。
わかっている。だが速い。いや、私が遅いのか。運動不足に革靴。体力の衰えと腹についた脂肪が恨めしい。
それにしても、あの男はいったい何者だろうか。通り魔か。それとも以前、若者に仕掛けられた悪質なドッキリか。……いや、ないな。いずれにせよ、逃げなければ。
――そこだ。
だが、その思いは容易く踏みにじられた。顔に感じる鈍い痛み。男が手を下したわけではない。私自身の足が縺れて転んだのだ。
――振り返るんだ。
息を切らしながら振り返ると、男が立っていた。
振り上げた刀が光を反射する。
下半身に感じる不快感。ああ……私は漏らしたのだ。だが、ははは、むしろ惨めさを強調するいい演出かもしれない。無駄かもしれないが、命乞いしよう。相手の同情を買うんだ。きっと、社会に不満があるのだろう。私も同じだ。仲間だ。
しかし……なんだ、言葉が出てこない。何も。喉が熱く、涙が勝手にあふれる。早く、早く何か言わなくては、今考えたことでもいいじゃないか、仲間だと。言え、言うんだ。
――何も言わなくていい。
そんなはずがないだろう。何なんだ、この声は。さっきも私を、あ、あ、あ……男が刀を振り下ろ――
「カット!」
……その声のあと、拍手が湧き起こった。そして、私の周りに駆け寄ってきた人、人、人……彼らは……。
「いやーすごい! 圧倒されちゃいましたよ!」
「天才! 天才!」
「さすが憑依型俳優ですね!」
「その髪の毛どうやったんですか?」
「迫真の演技でした! お疲れ様っす!」
「え、臭くない……?」
ああ……ぼんやりした頭が次第に冴えてきた。そうだ、私は俳優だ。以前、若者に仕掛けられ、無断でネットに流されたあのドッキリ映像が話題となり、俳優事務所の社長にスカウトされたのだ。
そして、天才だと持ち上げられ、あれよあれよという間にここまで来てしまった。
――椅子に座れ。
私は椅子に腰を下ろし、大きく息を吐いた。横の小さなテーブルに置かれた手鏡を手に取る。
次のシーンは『斬られる』場面らしい。着々と準備が進められている。
だが、このままだと、私はどうなってしまうだろうか。どうにか断れないものか……。
――断る必要なんてない。
鏡に映る、白くなった自分の髪を撫でていると、さっき誰かが言った『憑依』という言葉がふと頭をよぎった。
何か引っかかるし、このままではまずい気がするが、なぜか何をどうする気も湧いてこなかった。




