手 :約2000文字 :じんわり
「あ、しまったな……」
公園に入って、ベンチの上をぱっぱと手で払ったとき、そんなことを思った。これからタバコを吸うのに、わざわざ手を汚すことないじゃないか、と。でも、手のひらを広げて見ると、ペンキが剥げたボロいベンチの割には汚れがついていなかった。
まっさらで綺麗な手がどこか寂しく感じる……なんて、感傷はいいから腰を下ろす。
のどかだ。周囲には誰もいない。こっちがむせ返りそうな嫌悪感たっぷりの視線に晒されることもない。ここは職場からは離れているが営業エリア内だし、良い穴場を見つけたかもしれない。
――え。
タバコに火をつけ、何気なく辺りを見回していた僕は、目を疑った。
地面から手が生えている。
これはいったいどういうことだろう。最初はマネキンの手かと思ったが、こうして近づいてよく見ると、間違いなく人間の手だ。ほっそりとした艶やかな指先――女性の手に違いない。手はまるでこちらに握手を求めているような形をしている。
警察に通報……いや、待てよ。これは本物か? 精巧な作り物では?
もし誰かが女性を殺してここに埋めたとして、手だけを埋め損ねるものだろうか?
いくら人があまり来なさそうで、遊具もない味気ない公園とはいえ、計画性がないにも程がある。
考えているうちにタバコの灰がぽとりと地面に落ちた。もう喫えるほどの長さは残っていない。もったいない、と貧乏性が顔を出した。
僕は吸い殻を投げ捨て、大きく息を吐いた。
考えても仕方ない。触って確かめてみるしかないだろう。映画や劇の小道具かもしれない。本物かどうか確かめてから警察を呼んだほうがいい。作り物だったら、無駄に恥をかくだけだ。僕はそういうのを気にしてしまう性格なんだ。
僕は女の手を掴み、ぐいっと引っ張ってみた。
……動かない。けれど、柔らかな感触が、これは本物だということを物語っていた。
――決まりだ。早く警察を……
次の瞬間、女の手が僕の手を掴み返した。
なぜ? まだ生きている? そんな馬鹿な。
考えている余裕なんてなかった。その手は力強く、僕を引っ張り始めたのだ。
必死に抵抗するが、無駄だった。信じられないが、地面がまるで底なし沼のように僕を飲み込み始めた。靴が埋まり、足が埋まり、膝が埋まっていく。
女の手は、僕の手から腕、肩と、まるでダンスのパートナーのように置く位置を変えながら、僕を地面の中へ引きずり込んでいく。
足は感覚を失い、そして首の根元まで埋まったとき、僕は諦めた。
いや、正確にはその前から抗うのをやめていた。地面の中は意外にも心地よかったからだ。
首の他に、まだ右手が地面から出ていたけど抵抗する気はなかった。
――でも、タバコくらい持っておけばよかったな……。
そんなことを考えながら、僕は手のひらを開いたり閉じたりした。
ああ……やっぱりもうすっかり落ちてしまったな。絵具汚れ。嫌いじゃなかった。画家を目指していたあの日々も。諦めるにしても今とは違う道もあったかもしれない。経験を活かせる道が。看板屋とかペンキの、ああ、やっぱりあのベンチ、気になるなあ……。
女の手が僕の頭を掴み、グッと地面の中に押し込んだ。僕の体は右手だけを残して、地面の中へ完全に沈んだ。
呼吸ができなくて、じきに死ぬ。そう思ったけれど、不思議なことにちっとも苦しくなかった。それに、手だけなのになぜか地上の様子がわかる。周りが見えるだけじゃない。太陽の温もりを感じるし、そよ風が撫でる感触もする。
植物ってこんな感じなのだろうか。風を受け、ゆらゆら揺れる。
女の手もゆらゆら揺れていた。
『もう寂しくないね』
僕がそう思うと、それが女の手に伝わったのか彼女はバレリーナのように踊った。
僕は嬉しくなり、真似して手を踊らせた。
「……熱っ! あれ?」
指に熱さを感じ、反射的に手を振ると、タバコの灰がポトリと落ちた。気づくと僕は元のベンチに座っていた。
夢、だったのか? まあ、それしかないか。それにしても、おかしな夢を見たな……。
「……あっ」
僕は何気なく、あの手が生えていた場所に目を向けた。
そこには綺麗な花が咲いていた。
もし、あの手の夢を見なければ、たぶん僕は花の存在に気づかなかっただろう。
風を受け、花びらがゆらゆら揺れる。それがどこか優雅に踊っているようで、見惚れてしまう。
僕は花に近づき、見下ろした。
綺麗で女性の手みたいだ――気づくと僕は、絵筆を握る真似をしていた。




