冷たい壁の王国 :約2000文字
独房に一人の男が収監されていた。
薄汚れた壁に囲まれ、天井には弱々しい電球が一つ。窓はない。昔、シーツと格子で首を吊った者がいたから埋められたと聞くが、それが看守の脅しなのか、元からの造りなのかはわからない。
壁の一つにはドアがあるが、それも無機質で閉塞感に拍車をかける。じっとしていると、四方から息苦しさが迫ってくるようだった。いや、それどころか、床も天井も……。
――確かに、いい脅し文句だ。
男は辺りを見渡し、そう思った。首を吊る場所もないとは恐ろしい。ここにあるのは、木製の硬いベッドと汚れた便器だけ。狭いこの空間が男の世界のすべてであり、この先も変わることはない。誰であろうと、こんな世界は御免だろう。男も例外ではなく、やがて死ぬことばかりを考えるようになっていった。
だが、男には一つだけ望みがあった。遺書を残すことだ。生きた証を、学がないから拙い文章でも書き残したい。たとえ、それを読むのが看守の靴の裏であっても。
だが、問題がある。紙はトイレットペーパーで代用できるが、文字を書くものがないのだ。
男は独房内を探し回った。見つからないことは分かっていたが、何かしている間は気が紛れる。それに、看守の靴から落ちた靴墨のかけらくらいはあるかもしれない。もっとも、彼が生きている間にこの部屋に看守が入ることはないのだが。
しかし、やはり何も見つからない。ため息をつき、諦めようかとしたそのとき、ふと目に入った。
――あの白いのは……。
ベッドと壁のわずかな隙間。その暗がりにぼんやりと白いものが浮かんでいた。男は手を伸ばし、取り出して眺める。
それは、長さ五センチほどの白いチョークだった。この独房の前の住人が隠しておいたものに違いない。ここでは、これさえも貴重品だ。しかし、白いトイレットペーパーに書くには向かない。男はため息をつき、肩を落としながら壁を見つめた。
――描くか。
ここで気分転換に壁へ落書きすることを思いつかなければ、男は血で書くことを思いついていたことだろう。運がいい。たぶん。
さて、何を描くかと考えたが、悪行を重ねることしか能がない男。学などないから絵の描き方も知らない。
――これでいいか。
結局、描いたのは小さな棒人間だった。丸と線だけで構成された、なんとも素朴な絵。それでも男は満足だった。この孤独な独房に同居人ができたように感じたからだ。
それ以来、男は毎日、その棒人間に話しかけた。他人が見れば頭がおかしくなったと思うかもしれないが、接するのは食事を運ぶ看守だけで、その看守とも会話はない。男のことなど、どうなろうと知ったことではないのだ。男も自分がどう見られようと気にしていなかったので、ある意味良好な関係と言えよう。孤独の中で、彼は棒人間と平穏な時を過ごしていた。
だが、ある朝、変化が訪れた。いつものように棒人間に話しかけた男は、思わず息をのんだ。
――動いた……。
棒人間が手を振ったのだ。
男は落胆した。俺はとうとう頭がおかしくなったんだ。そう思ったのだ。
だが、それでもいいと考え直した。意思疎通のできる相手ができたのだ。棒人間は言葉こそ話さないが、男の言葉に反応し、身振りで意思を伝えてくる。踊ったり、バク転をして見せたり、この閉ざされた独房での楽しい友となった。
そんな日々が続いたある朝。男はおや? と思った。いつものように棒人間に声をかけたが、棒人間は膝を抱えたまま動かないのだ。元気がないことは明らかだが、原因はなんだろうか。
男はそう悩むことなく口にした。自分がそうなのだから、あいつもきっとそうだ。そういった理屈だった。
「女だ! 女が欲しいんだろう!」
そう言うと、棒人間は照れたように頭を掻いて頷いた。
的中し、気分を良くした男は、チョークを手に取って新しい棒人間を描き始めた。そして、頭にリボンを描いた瞬間、女の子は動き出し、二人手を取り、嬉しそうに踊りだした。
男は得意げになり、さらに壁にいろいろなものを描き込んだ。犬、家、その住人たち。ショッピングモールにパチンコ屋や競馬場など、自分の好きなものばかりだ。夢中になり、気づけば独房の壁に一つの町ができた。もちろん、それらも下手糞で質素なものではあったが、男は大満足、まるで王様の気分だった。
しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。ある朝目を覚ますと、壁の棒人間たちがなにやら騒いでいた。
どうやら、男に抗議しているようだ。彼らが掲げるプラカードには【もっと娯楽施設を作れ!】【大きな家が欲しい!】など、様々な要求が書かれていた。
なんて身勝手な連中だ。いちいち応じていてはきりがない。
男はそう思い、ベッドに戻り目を閉じた。
……が。
「いてえ!」
男は足に痛みを感じ、飛び起きた。見ると、足に小さな切り傷ができ、そこから垂れた血が薄汚れたシーツに丸いシミを作った。
その原因に気づいた瞬間、男は寒気を感じた。まるで知らず知らずのうちに増殖していたカビに気づいたときのような。
男の足のそばには、ショッピングモールで調達したらしい武器を持った棒人間たちがいたのだ。
警察署を描いておくべきだった。
壁や床、天井を自在に移動する棒人間たちを見て、男はそう思った。
「また自殺か……」
「だな……てめえの爪と歯でここまでやるなんて、頭がいかれちまったんだな。まあ、無理もないか。しかし、嫌な空気だ。とっとと運んじまおう。ん? 何見てんだ?」
「ああ、壁に……いや、なんでもない。行こう」
男の遺書は壁に残されていた。
ただ、赤黒いそれは文字とも絵ともつかないものだった。




