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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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幽霊になった日       :約3000文字 :じんわり

 夜中、僕は目を覚ました。時計を見ると、まだ朝には早い時間だけど、いつになくすっきりとした目覚めだ。珍しく、体の疲れや頭痛がない。

 そのことに少し驚きつつ、喉を潤そうと起き上がった。その瞬間、異変はそれだけじゃなかったことに気づいた。

 体が半透明で、目の前にはベッドに寝たままの自分がいるのだ。


「これは、もしかして幽体離脱ってやつか……?」


 そう呟き、落ち着きを払ってみたものの、心に広がる不安は抑えられない。動悸が……しない。当たり前だ。そんなことより、このままだとまずいんじゃないか?

 僕はそう思い、体に戻ろうとしたけど、何度勢いをつけても体の中に入り込むことができなかった。ゆっくりと沈むように体を重ねていると、ふと呼吸がないことに気づいた。それに、薄暗いからはっきりとはわからないけど、肌は蒼白で、唇は赤紫蘇のように色づいているように見える。そして、胸に顔を沈めても、心臓の音が聞こえなかった。


「もしかして、僕はもう死んでしまったんじゃ……」


 呟いた声は誰にも届かず、部屋の掛け時計の針の音にも劣るほど小さく感じられた。僕はもう誰にも、何にも影響を与えられない存在になってしまったのかと、絶望に似た感情が湧き上がる。それを振り払おうとどれだけあがいても体には戻れなかった。無音の僕の体は時計の針よりも無力だ。


 ――生き返って何になる。


 辺りを見回し、どうにか体に戻る方法はないかと探していたとき、ふとそんな思いが頭をよぎった。いや、それは心の底に沈んでいたものが表に浮かび上がったというべきかもしれない。ゴミ溜めの中から草が芽を出したように。

 僕の周りにある現実は、狭い部屋と散乱したゴミ、つけっぱなしのノートパソコン。その壁紙は仕事関係のファイルで埋められていて、見えない。まるでスペースデブリだ。恋人はいないし、友人とも疎遠。仕事が忙しいせいだ。でも、生きがいではない。安い給料、終わらない仕事、嫌な上司と同僚に追われる毎日。昨夜も残業で疲れ切り、眠気を催すために睡眠薬を飲んで寝たのだ。

 ……とすると、その睡眠薬が原因かもしれない。思えば飲む量が多かった気がする。何もかも投げやりだったんだ。あるいは過労がたたったのかもしれない。この夜、ついに緊張の糸がプツリと切れてというやつだ。

 どちらにせよ、全部会社とあの上司のせいということだ。復讐を……なんて考えも浮かんだけど、どうも乗り気になれない。

 なぜなら、今、二度寝をする直前のように心地良い。しがらみから解放されたような自由な気分、まさに天にも昇るようだ。ああ、実際に空を飛べる気さえする……おお、まさか本当に。念じると僕の体はふわりと浮き上がった。

 しばらく練習し、時計を横目で見る。この状態になって少し経つが、死神も天使も現れない。迎えに来るものと思っていたけど、どうも違うらしい。自分から来いということだろうか。サービスが悪い……いや、向こうも人手不足かもしれない。気持ちはよくわかる。

 このまま部屋にいても何も変わらないので、僕はとりあえず外に出ることにした。


 ……それにしてもなんて良い気分なんだ。空を自由に飛ぶというのは、こんなにも楽しいものなのか。

 僕は童心に返って笑い、叫び、くるくると回転したり急上昇や急下降を繰り返したりした。

 遊んでいると、出勤途中かあるいは帰宅途中か、会社員風の男性が道を歩いているのを見かけた。僕は驚かせようと思い、目の前に飛び出してみたが、案の定、彼には僕が見えないようだ。「お疲れ様。あなたも死んでみるといいよ」と背中に声をかけて見送った。


 さて、これからどうするか。といっても『観る』ことくらいしかできない。女風呂でも覗こうか、世界中を旅してみようか、映画館に入ってみようか……。

 あれこれ考えてみたけど、どれも気が進まない。女性に触れることもできず、世界を旅したところで、現地の料理を味わうこともできない。それに、生きて楽しそうにしている人間を見ると、妬ましさすら感じてしまいそうだ。

 ああ、なんだか考えるのも面倒だ。死んだことで僕の中から欲というものが消え失せてしまったのかもしれない……。


「やあ、どうも」


「えっ」


 やることがないので空中で寝そべっていたら、突然声をかけられて驚いた。見れば気の良さそうな中年男性が立っていて、彼の後ろには数人の男女や子供までいた。当然だけど、彼らはみんな……。


「もしかして、あなたたちもですか?」


「ええ、そうです。幽霊です。いやー、幽霊って本当にいるんですねえというか、なれるんですねえ。ははは、私、生前はそういうの一切信じてなくて、まあ、それはさておき、退屈そうにしていたので声をかけたんですが、どうです? 行きませんか?」


「え、行くってどこに? あ、天国ですか?」


「いやいや、天国も地獄もないみたいですよ。もしあるなら今、私たちのいるここが天国であり、地獄でしょう。自由と言えば自由だし、不自由と言えば不自由だ」


「確かに……。でも、それじゃあ、どこへ行くと言うんですか? 世界旅行ですか?」


「それも違いますよ。ふふふ、あなたのさっきまでの表情を見ればわかります。私もかつてはそうでした。世界を見に行こうとか女風呂を覗こうとか」


「べ、別にそんなことを考えては……」


 女性もいたのでつい取り繕ってしまった。死後も羞恥心や見栄は根強く残るらしい。

 僕がちらりと見ると彼女はニコッと笑った。掴みようがない靄のようなあの感情も残っているのだと僕は気づいた。


「私は実際にやってみたが、楽しいのは最初だけ。すぐに飽きてしまいましたよ。現地で楽しそうに生きている人間を見て切なくなるだけ。妬み、呪ってやろうとする幽霊もいますが、私に言わせれば無駄だね。見えないし、触れもしないんですから」


「それで、どこへ?」


 僕が訊ねると男は空を指さして言った。


「宇宙ですよ。未解明の世界で、生きている人間は宇宙服なしには宇宙船の外に出られない。しかし、私たちはどうです? 自由に空を飛ぶことができ、空気も必要ない、疲れも痛みも感じない。どうです? 私たちと宇宙を旅してみませんか?」


「宇宙……」


 その言葉に触れた瞬間、僕は小学校の卒業文集を思い出した。

 将来の夢、宇宙飛行士。夢を見すぎだと笑われて、僕も笑った。その場をやり過ごすための行為だったけど、それはやがて僕自身に『お前には無理だ』と突きつけた。

 でも今、そんな僕はもう死んでいる。気づくと僕は彼らに向かって一歩を踏み出していた。


 こうして僕たちは空へと昇り始めた。空高くから見渡すと、他にも多くの人々が空へと昇っていくのが見えた。きっとみんな、国も人種も超えて、同じことを考えたのだろう。すべてのしがらみから解放され、少年少女のように目を輝かせているように見えた。


 ――綺麗だ。


 僕のその呟きが届いてしまったようで、彼女が僕を見た。僕は視線を逸らし、再び辺りを見渡した。


 ああ、綺麗だ。


 空に連なる人々は、まるで夜光虫のように淡く輝いていた。

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