10 異世界転生の現実
愛菜が目を覚ました場所はゲームの世界……ではなかった。
愛菜以外は誰もいない。翔悟はおろか、女神すらも。
それにもかかわらず、どこからともなく声がする。
「やあ、石須愛菜さん」
「誰……?」
「やだなー、神様だよー」
その声は以前に聞いた神の声とは全く別物だった。
「前の人とは別の人……?」
「そうだよ、前の人は役目を終えたからね。まあ、その辺は今から説明するよ」
愛菜は唾を飲み込んだ。以前の神の声と違い、今話している神の声はどこか胡散臭い。まるで詐欺師のような語り口調だった。
「そ、そうだ! 翔ちゃんは……翔ちゃんは!?」
「ああ、心配するな。彼なら旅を続けているよ。私は彼を気に入っているからね。消滅なんかさせないさ」
「翔ちゃんは今どこにいるの!?」
「さぁー?」
「なにそれ、どういうつもり!? 記憶のことといい、何がしたいの!?」
「どういうつもり、か。まあ、そのうち教えてあげるよ」
「翔ちゃんに変なことしてないでしょうね!?」
「まあまあ、落ち着きなって。大丈夫だよ、さっきも言ったけど、私は彼を気に入っている。悪いようにはしないさ。君にもきっとまた会えるよ」
「……なら……いいけど……」
神の言葉がどれだけ信用できるものか、彼女にはわからなかった。
「さて、本題に入ろう。ああ、こっちの方が話しやすいかな」
神はそう言うと、一瞬の閃光と共に愛菜の目の前に現れた。見た目は若い男性だった。黒いスーツを身にまとい、腕には腕時計、耳にはピアスをしていた。
「改めて初めまして、神です」
「……」
不審がりながら、愛菜は差し伸べられた手を握り返し、固く握手をした。
「じゃあ本題に入るよ。前の神から聞いてるかな? 君は転生者として一人前になったから昇級だよ、おめでとう」
「昇級……?」
首を傾げる愛菜。
「え、前の神から何も聞いてないの!?」
「は、はあ。おそらく」
神は、参ったなーと頭をかいた。
「なんで教えないかなー。まあ、あいつらしいっちゃあいつらしいか」
愛菜はわけもわからず、ただ相槌を打つことしかできなかった。
「今から大事なことを伝えるから、よく聞いててね」
「は、はい」
神は咳払いをして、愛菜の方に一歩近づいた。
「君は転生者として、数々の世界を巡ってきた。君はもう、一人前の異世界旅人といっても過言ではない。よって秩序に則り、君はジョブチェンジする」
「ジョブチェンジ……?」
「そう。もう転生も飽きてきた頃だろう? 次は君が転生者を導く番だ。」
一呼吸おいて、神は告げた。
「君には……女神になってもらう」
愛菜は言葉の意味が理解できなかった。今まで自分とは別次元の存在だと思っていた女神という存在になれと言われた。
「わ、わたしが女神になるって意味がわかんない!」
「そのままの意味さ。なに、そう難しいことじゃないよ。君が女神にしてもらったように、君も転生者の話し相手になればいい。時には悩みを聞いてあげればいい。それだけさ」
「そうじゃなくてっ! いきなり言われても……」
「あー、まあ無理はないか。でも拒否権はないよ。受け入れてもらうしかない。それが秩序だからね」
愛菜はその場に立ち尽くすことしかできなかった。何を質問して、何を理解するべきなのかということにすら、思考が及ばなかった。
「じゃあ手始めに、今から君を統合するよ」
「とう……ごう?」
「全世界から石須愛菜という存在を消して、一箇所に集める。そうしないと女神という孤高の存在になれないからね」
「私……どうなっちゃうの?」
「君は何もならないよ。ただ、世界から君の存在が消える。君に関する記憶、痕跡なんかが消える」
「そ、そんな!? じゃあみんな私を忘れちゃうの!?」
「そうだよ」
神は冷徹に言い放った。
「そんなのやだ! じゃあ思い出も、私との時間も無かったことになっちゃうの!?」
「ああ、君は世界に存在していたが、その存在が思い出されない、そんな幼稚園の同級生みたいな存在になるのさ」
「いやだよ! どうにかならないの!?」
「拒否権はないよ。それが秩序だからね」
「そんなの……そんなの寂しいじゃんっ! 私の人生は無駄だったってことじゃん!」
愛菜は神の袖をぎゅっと掴んですがった。
「お願いだよ、神様っ! 神様でしょ!? どうにかできるでしょ!?」
「無理だよ。神にもどうしようもないことだってある。それが秩序なんだよ」
すがる愛菜を見下ろして、神はきっぱりそう言い切った。
「翔ちゃんも、池ちゃんも忘れちゃうの!? そんなの嫌だ! 私だけが覚えてるなんて……!」
「……はあ、一つだけ方法がないこともない」
見かねた神は一つの提案をした。あるいは初めからそのつもりだったのかもしれない。
「君の記憶も消すことならできる。消したくないなら私が預かってあげよう。そしたら君も辛い思いをしなくて済む」
「……で、でも……」
「君が初めからやり直せばいい。新たに女神として、人生をスタートするのさ。もしかしたら海川君や池内君が転生してくるかもしれない。その時、君の記憶を持って迎えるのと、別人として会うのと、どちらが辛くないだろう?」
「それは……」
「もちろん、時が来たら君の記憶は返そう。その時まで君の苦しみを預かろう」
「その時って……?」
「全てが元どおりになる時だよ。具体的には、君が女神として一人前になるまでだ。その時にはきっと、君の理想とする世界になるよ」
「……」
愛菜は迷いに迷い、考え込んだ後、立ち上がった。
「わかった。神様の言う通りにして! どうせ拒否権はないんだもんね……」
「ああ、決心してくれたみたいでよかった。嫌がる相手に無理やりってのも気がひけるからね、じゃあちょっとまってね」
神は愛菜から距離を取ると、呪文を呟いた。すると天から本と筆が降ってきた。
「じゃあ、始めるよ。君の場合、統合の時に苦しみはそんなにないはずさ。ちょっとの間、目を閉じててね」
神は本にスラスラと筆を走らせ始めた。愛菜は無意識のうちに瞼を閉じていた。
愛菜の脳内に思い出ビデオが再生されていった。辛いことも悲しいこともたくさんあった。しかし、それを帳消しにするほどに楽しいことがたくさんあった。
苦しい思い出が流れてくると息苦しくなった。辛い思い出が流れてくると頭が痛くなった。楽しい思い出が流れてくると楽になった。
彼女はたくさんの経験をしてきた。異世界で強烈に記憶に残る冒険をしてきた。
それでも彼女の記憶に一番焼き付いていたのは、幼馴染二人との日々だった。
「もう目を開けていいよ」
愛菜はそっと目を開けた。頭は少し痛むが特に外傷はなかった。
「終わったの……?」
「ああ、君はこれで完全に石須愛菜だよ。世界にただ一人のね」
「もとからそうだよ」
「はは、まあそういうことにしておこう」
愛菜は変な感覚に襲われていた。デジャブを超えて自分の中にあるかすかな記憶が夢かうつつかわからなくなった。
「じゃ、次は君を女神にするよ。準備はいいかい?」
もう彼女に迷いはない。
「うん、いいよ」
「記憶もついでに取っちゃうよ。最後に言い残すことがあれば聞くよ」
じゃあ……、と考え込んだ。そしてにこやかに答えた。
「翔ちゃんを……池ちゃんを……みんなを幸せにしてほしいな。神様ならできるでしょ?」
「できるよ。その声しっかり聞き届けたよ」
神が呪文を唱えると、愛菜の周りは光に包まれた。
「じゃあ、がんばってくれたまえ! 女神イシス!」
女神イシス。その名を愛菜は小説で読んだことがあった。
エジプト神話ナイル川の豊穣の女神。または死者を守る女神。自分にぴったりの名前かもしれないと思った。
光は強さを増していく。愛菜は眼を閉じた。
そして一瞬の閃光とともに消えた。
残された神は一人でつぶやく。
「君の願いは聞き届けたよ。でもそれをするとは言ってない。できるとは言ったけど、実行するとは言ってない。私は私なりにやるよ」
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女神は目を覚ました。見渡す限り平らな地面、見上げるとどこまでも続く天。
自分がなぜここにいるのかわからなかった。ただこの世界の仕組みと、自分の使命と、自分が女神であることしか覚えていない。
自分は転生者を導く女神。
「名前は……」
何の女神だったか、名前は何だったか思い出すことができなかった。
「女神……、めがみ……」
とりあえず彼女は仮の名前を決めた。
彼女の女神としての初仕事はそのあとすぐのことだった。




