第154話 名前が、載る
七月の練習場は暑い。
冷房は二年前に一度壊れて、そのまま直していない。窓を開けると海の風が入る。潮の匂いがするから嫌だと言う選手もいるが、閉めると誰も走れなくなる。
宇野匠はその風の下で、シューティングをしていた。
十九歳。去年のドラフトでどのクラブからも指名されなかった選手だった。育成契約で一年、練習だけをして、試合には二度しか出ていない。合計で九分だった。
その九分を、和久井が全部数えていた。九分のうち、宇野がコートにいるあいだの失点は、四点だった。母数としては何の意味も無い数字だった。それでも和久井はその紙を郷田に渡していた。
「宇野」
郷田が呼んだ。
宇野はボールを抱えて走ってきた。
「来季から、本登録だ」
郷田はそれだけ言った。
宇野はしばらく黙っていた。それから「はい」と言った。声が少し裏返っていた。
「背番号、選べ。空いてるのは、四番と二十四番だ」
「……二十四で」
「なんでだ」
「去年、二回出て、九分でした」
宇野は言った。
「二十四分、やりたいので」
郷田は鼻を鳴らした。それから行けと言った。宇野はまた走っていった。
郷田はその背中を少し見ていた。
「一年、試合に出さねえで置いとくのは、初めてだ」
郷田は誰にともなく言った。
「昔は、そんな余裕、どこにも無かった」
番場剛はその日、コートに出ていなかった。
二階の器具室で自転車を漕いでいた。十九年目の男は夏のあいだ、ほとんどコートに立たない。膝をシーズンまで取っておく。宮里が決めたやり方だった。
要が通りかかると、番場は漕ぎながら顔だけ上げた。
「あの二十四番の坊主な」
「宇野ですか」
「二十四分やりたい、っつったんだろ」
番場は足を止めなかった。
「俺は一年目に、四十分やりたいって言った。……言えるうちが、いちばんいいんだよ」
要はうなずいた。
「オーナー。ひとつ、聞いていいか」
「はい」
「箱の話、本当か」
要は少し黙った。
「まだ、何も決まっていません」
「そうか」
番場はそれだけ言った。それ以上は聞かなかった。十九年目の男は決まっていない話を二度は聞かない。
比嘉はコートの端にいた。
去年の冬に入って二年目になる。沖縄で得点王を取って、それでも指名から漏れた選手だった。点は取れる。
その比嘉が東悠真の後ろについて、横に動いていた。
「もう半歩」
東が言う。
「腰。下げるんじゃなくて、落とす」
比嘉がやり直す。
「今の、俺の膝が見えたか」
「……見てないです」
「見ろ。手じゃない。膝だ」
十回やって比嘉が一度も抜かれなくなるまで、東は次へ行かなかった。
去年の比嘉ならこの時間を退屈がっていた。二年目の比嘉は退屈がっていなかった。
その隣に一人いた。
名嘉勇一。二十四歳。六年目だった。
垂直跳びはチームでいちばん高い。二十メートルのタイムもいちばん速い。数字だけを見れば、この練習場で名嘉より上の日本人はいない。
その名嘉が東の列に入っていなかった。
入っていないのではない。呼ばれていなかった。東は比嘉に教えている。郷田は宇野を見ている。名嘉には誰もついていなかった。
六年、この選手は同じ場所にいた。速いのに間に合わない。跳べるのにそこにいない。判断が半拍遅れる。半拍は映像には映らない。
要は二階の通路からそれを見ていた。
夕方、商店街へ寄った。
鍬形の店の前で札を数えている男がいる。板が三枚に増えていて、いちばん新しい板は去年の暮れに掛けたものだった。
「要さん」
鍬形が顔を上げた。
「札、また増やすのか」
「……なぜですか」
「蔵本さんが、二日前に来た。板の話をしていった」
鍬形は雑巾で板の端を拭いた。
「言っとくがな。順番は動かさんぞ。出した順だ。それだけは、動かさん」
「動かしません」
「そうか」
鍬形はそれだけ言ってまた拭き始めた。
「うちの隣の写真屋な。去年、店を閉めた」
鍬形は板の真ん中あたりを指した。
「札は、そのままにしてある。誰にも、外させてない」
要はその札を見た。名前だけが残っていた。
それから二枚目の板の端を見た。五百円の札が一枚ある。名前だけの札だった。
札を残すことは本人にもう約束した。あの選手がここで何をしたかを、どう残すかは決めていなかった。
練習場に戻ったのは、七時を過ぎてからだった。
照明が半分だけ点いていた。半分で足りるからだった。
コートに一人いた。
名嘉が走っていた。二十メートルを往復していた。誰も見ていない。ストップウォッチも無い。
要は入口で足を止めた。
反対側の通路に東が立っていた。まだ帰っていなかった。腕を組んで名嘉を見ていた。
東は、声をかけなかった。
要も、かけなかった。
名嘉はそれに気づかずに、また折り返した。
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