第136話 車を、売った
二月の最終週に浜口が一枚の紙を持ってきた。
数字は三つだった。
四千百。三千三百。八百。
その下に四つ目があった。ゼロと書いてある。
「今月で、終わりです」
浜口は言った。
「要さんの残りです」
要はその紙を見ていた。ゼロという字を見ていた。三年、要の私財が一試合ずつ埋めてきた差だった。その残りがゼロになる月が、来ていた。
「三月からは、埋められません」
浜口は言った。
「残りのホームは、八試合です。その八試合の赤字は、そのままクラブの穴になります。……来季の運転資金から、引かれます」
「はい」
「去年、要さんは僕に言いました。今季中に、一度でいいから線を超える、と」
浜口は紙を机に置いた。
「あと、八試合です」
その週、要は車を売った。
十年乗った車だった。売った金は二月分の穴の半分にもならなかった。
要はそれを誰にも言わなかった。売ったこともその金が何になったかも。三年前に七億が振り込まれたとき、要が買わなかった車を、要は今売った。
気づいたのは苅田悟だった。
練習の帰り、駐車場を横切ってきて無邪気に聞いた。
「要さん。車、どうしたんすか」
「売りました」
「え、なんでですか」
「……乗らないので」
「あー。まあ、体育館、近いっすもんね」
苅田はそれで納得した。
「じゃ、おつかれさまです」
苅田は自分の軽自動車に乗って帰っていった。エンジンの音が駐車場から消えるまで、要はそこに立っていた。
苅田は何も知らない。自分が三年前に切られかけたことも、その九百万がどこから出たかも、要が今何を売ったかも。
知らないまま来年も赤いビブスを着る。
知らないままでいさせることが、要の仕事だった。説明できないまま残した一人が、説明されないまま来年もいる。それでよかった。
その夜、要はアパートに帰った。
潮見駅から歩いて十五分の、二階の角部屋だった。三年前に借りてそのままだった。
家具はほとんど無い。机が一つ。折り畳みの椅子。冷蔵庫。三年前に七億が振り込まれたとき、要が買ったものは、一つも無かった。
壁には何も掛けていない。
引き出しに当せんの紙の写しが入っている。一度も出していない。写しだけを要は持っていた。本物が何を変えたかは、この部屋を見ても分からなかった。
翌日、事務室に戻ると、和久井の部屋の電気がまだ点いていた。
要はそこを覗いた。
「和久井さん。一つ、頼んでいいですか」
「はい」
「残り八試合で、いちばん客が入る日を、教えてください」
和久井は画面を切り替えた。
「対戦相手、曜日、天気、去年の同じカード。……三日ください」
「はい」
和久井はそれ以上理由を聞かなかった。
要も言わなかった。私財は二月で尽きる。それでも今季中に一度だけ、線を超える。要が何をしようとしているかは、言わなくても和久井の画面にはたぶんもう映っていた。
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