2 戦闘準備
後半を大幅に改訂しています。
ヒャルマー・フリードルフ・シーラスヴォ。
壮年の男は一見しただけでは丸顔に穏やかな眼差しが印象的な好人物だ。表向きには文部省の役人という顔も持っているが、温厚とも思える為人はあくまでもシーラスヴォという男のひとつの側面にしか過ぎなかった。
暖かい眼差しの下で、何を考えているのかわからない。そんな底知れなさすらをも持ち合わせる彼はマンネルヘイムの命令を受領して、シーラスヴォは敗走するスオムッサルミの部隊との合流を急いでいた。
十一月の末の開戦の時点からすでに戦況の雲行きは怪しいところだった。シーラスヴォは簡潔にまとめられた報告書と、絶え間なく届く新たな情報の整理と把握に努めている。
情報は常に正しく現実的でなければならないのだ。
「大佐殿」
呼び掛けられてシーラスヴォは列車の中から視線を上げた。
急ごしらえの部隊はフィンランド各戦線から引き抜かれ順次、クフモに向けて出発する準備をしているが、現実にシーラスヴォの手に受け取るまではもうしばらくかかるだろう。
魔法はないから、ヒャルマー・シーラスヴォとしては到着を待つしかない。
部隊の統制はとれるのか。
そもそも各将校らとの連携はとれるのか。
そんな思い過ごしにも似た不安がシーラスヴォの内心でうたかたのように湧いては消えていく。いや、消えていったのではない。彼がスオムッサルミへと向かう中での情報整理の中で打ち消していったのだ。
短期間で各将校らとの信頼関係を築くのは容易なことではない。
「どうしたのだね?」
アルポ・マルッティネン大尉の厳しげな眼差しに、シーラスヴォは落ち着き払っているようにも見える視線を返してから、窓の外に顔を向ける。
今年の冬は特に厳しい。
十二月に入ってからの雪は降り止まず、幸いにしてその雪が悪化しつつある全ての状況に歯止めをかけていた。
早く訪れた冬将軍が、ソビエト連邦軍の足を止める。
それはスオミネイトの祝福なのか。
フィンランドの装甲列車は降り続ける雪を巻き上げてスオムッサルミへと向かって突き進む。全ての不安と、恐怖をも蹴散らす勢いで。
現在、スオムッサルミの主な部隊はカールネ・カリ少佐の率いるカリ戦闘団と、別働隊としてソ連赤軍の行く手を阻む狼戦闘団と、熊戦闘団だけだ。こうした状況の打開のためにシーラスヴォが派遣されることになった訳なのだが、現状としては状況は全く明るくない。
「カリ少佐はよくやっていると聞く」
ぽつりと呟いたシーラスヴォにマルッティネンは片方の眉尻をかすかに上げてから無言で頷いた。
「よくも二個大隊で」
カールネ・カリの指揮する二個大隊。
そしてスシ戦闘団、カルフ戦闘団が各々二個大隊ずつという圧倒的な戦力差でかろうじて彼らはソビエト連邦赤軍の第九軍――狙撃兵師団三個師団――の攻撃を受け止めている。
もちろんそこにシーラスヴォが到着したところでその状況に代わり映えはしない。フィンランド全土を覆い尽くすような雪の中で部隊の移動がままならないのはなにもソビエト連邦赤軍だけにとどまらない。
「状況は好転するでしょうか」
問いかけられてシーラスヴォは小さく肩をすくめてみせた。
彼に与えられたのはたった一万人の戦力に過ぎない。一万と言えば聞こえは良いが、たったそれだけだ!
しかも半数はあちこちの戦線からの寄せ集めた予備兵力でしかない。加えて、部隊を整えながらクフモに向かっているとは言え、彼に与えられた戦力がすぐに到着するわけでもない。
実際に行動できるようになるにはもうしばらくかかるだろう。
要するにシーラスヴォが現地に到着したところで、やることと言えば状況の把握と、現在の状況以上に事態を悪化させないよう食い止めることくらいのものだ。
装備の面からも、兵員の数からも何もかもがソ連軍はフィンランド軍を凌圧倒している。絶望しようもない数字の大きさは、逆に精神を麻痺させるものらしい。シーラスヴォは目の前に突きつけられたひどい戦力差に、結局渇いた笑いを漏らしただけだ。
「元帥は……」
揺れる汽車の中でシーラスヴォは窓辺に肘を突くとぽつりと言った。
「元帥は、不可能を可能にせよとおっしゃった」
シーラスヴォの言葉を受けてマルッティネンがわずかに瞠目する。
現状圧倒的劣勢にあるフィンランド軍――その急ごしらえの部隊の指揮官に、不可能を可能にすることなどできるのだろうか。
「絶望をしているかね?」
壮年の予備役大佐に問いかけられて、マルッティネンは一瞬頷きかけてから数秒後に慌てた様子で首を横に振った。
「ソビエト連邦の人口は一億七千万だ」
まるで授業でもするようにシーラスヴォがマルッティネンに言葉を綴った。
「この戦いは、先の内戦ほど生温いものにはならないだろう」
「一億七千万……」
シーラスヴォの口に出した数字にギョッとした様子でマルッティネンは言葉を失ったきりだ。
「それでも、我々は戦わなければならない」
戦わなければ全てを失うだけだ。
「共産主義者のクーシネンが、我らフィンランドに何を残していったのかを理解していれば、ソ連の危険性は言うに及ばない」
そこまで言ってからシーラスヴォは言葉を一旦切って、数秒の沈黙を挟んだ。
「とは言え、元帥に期待されたところでわたしは魔法使いではないからな」
ソ連赤軍とフィンランド軍。そのどちらが何を持っていて、何を欠いているのか。それを冷静に分析して把握しなければならない。それこそが、フィンランドが勝機を得るための可能性だ。
「ソビエト連邦相手に正攻法で挑むのは、馬鹿のように巨人と真正面からやりあうようなものだよ」
「理屈はわかります」
状況を的確に見極め、自分自身にとって不都合だろう事態も予測し、柔軟に受け止め、さらに冷静に判断を下すだけの資質を指揮官は要求される。
どんなに最悪の状況からも目を背けてはならない。
それが現実である限りは。
そして、シーラスヴォは知っている。
最悪の状況など滅多にあるものではない。どこかに必ず打開点はあるはずなのだ。
それがどんな関係であれ。
国際社会とは、子供たちの社会のそれとよく似ている。
「不利な立場にあるのなら、どうすれば巨人とも戦えるのかを考えるだけだ」
目を伏せて、シーラスヴォは自分に言い聞かせるようにそう告げた。
*
十二月八日の深夜――。
ヒュリンサルミの司令部に到着したシーラスヴォはカールネ・カリの部隊と合流した。カリからの状況報告を受けて、地図を睨み付けたまま素早く思考を巡らせた。
国際社会だとか、子供の社会のことだとか。
そうしたものはとりあえず頭の隅に追いやって、シーラスヴォは軍人としての顔つきに変わる。それは先の欧州大戦で、ドイツのイェーガー部隊で経験を積んだベテランの兵士の顔だ。
ソ連赤軍第九軍はソビエト連邦とフィンランドの国境付近にある後方連絡線を道路でつなぐようにして、フィンランド東部から、スオムッサルミを抜けて道路沿いに南下して縦に伸びきっていた。
彼の部隊はまだ到着していないが、津波のように押し寄せるソビエト連邦赤軍の大部隊を押しとどめるのは今しかない。
フィンランド中部は「フィンランドの腰」と呼ばれ、国境から海岸部までが最も距離が横に短い地点だった。そこを赤軍に奪取されるようなことになれば、フィンランドは上下に分断されることになる。
だからこそ、ソビエト連邦は首都や軍事的要とも呼べるミッケリなどから離れたスオムッサルミ地区を狙ったのである。
「これは……」
カールネ・カリの報告を聞きながら、地図を凝視するシーラスヴォは独白してから考えた。
フィンランドとソビエト連邦との国境付近。さらにそのソビエト連邦領内に向かって長く伸びる鉄道路線の存在に、シーラスヴォが苦々しげな顔つきになった。
報道ではフィンランドからの砲撃によって戦争がはじまったとされた。もちろんそんな事実があるわけもないのだが、仮に、ソビエト連邦の言い分が正しかったとしても、新たに建設されたばかりのフィンランドに向かって伸びる鉄道路線は、最初からソビエト連邦が侵攻を企図していたに違いないことを如実に物語っていた。
「赤軍第九軍の補給拠点となります、大佐殿」
「そうなるだろうな」
こんなにも国境近くに鉄道網を張り巡らされていながら、フィンランド側が全くこのソビエト連邦の思惑に気がつくことができなかったことにシーラスヴォは不快感を禁じ得ない。
「……しかし、それにしても幸運だった」
やがて肩の力を抜いたシーラスヴォが微笑すると、地図を目の前にしてフィンランド陸軍第九師団長に戦況の説明を行っていたカールネ・カリは「は?」と言葉を返しながら眉間を寄せる。
「幸い赤軍の隊列は縦にユントゥスランタ道からフルコン岬にかけてに伸びきっている。さっそく明け方から攻勢に出るとしようか」
穏やかな面持ちで、なんでもないことのように告げてから、ぽかんと口を開いているカリに対して命令を下した。
「各部隊長を招集せよ。明け方から反攻作戦を開始する」
「……しょ、承知しました!」
それはそう。
フィンランドには一刻の猶予もならないのだということを、カールネ・カリにもわかっている。だからあくまでもカリは上官に従うだけだ。軍隊は上官の命令はどんなに理不尽であっても絶対であり、そこに言論の自由など存在しない。
ほんのわずかな逡巡の後にカリは叫ぶようにシーラスヴォに応じると敬礼した。
フィンランドの反撃が始まる。