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本来、格下のものから格上のものに積極的に声をかけることは許されない。
しかしそれでも社交界──パーティーやお茶会などの場合のみ、“挨拶”という形で、格下から声をかけることは例外とされていた。
といっても、適用されるのは、その格上の相手がパーティーなどの主催者である場合。
例えばこのパーティーがどこかの貴族が催したものであれば、格下から挨拶が出来るのはその主催者一家に対してのみだが──このパーティーの主催者は、皇族。
つまり、本来であれば声をかけることなど決して許されないような者であっても、挨拶として声をかけることだけは許されるのだ。
もちろんその場合は相手の、今回であればアルベルトの機嫌を損なわないよう、最低限のもののみであるが。
そこでアルベルトが話を広げるようであれば会話を続けることは許されるが、そうでなければ挨拶ひとつでその場を去らねばならない。
ロゼリアは侍女たちからも、今回は挨拶として多くの貴族たちが声をかけてくるだろうと聞いてはいたが──人族というのは実に面倒だ。
例外など作らなければよいのに、やれ規則だやれマナーだなどと、様々な決まり事を作りたがる。
それを守らねば白い目で見られるし、知らないとすれば馬鹿にされる。
他者を見下し優位に立つことが好きな人族らしいといえば、そこまでだが。
「このたびは、ご機嫌麗しく──」
しかも、その挨拶というのが型通りのお決まりの文言。
それから始まる挨拶を、いったいどれだけ聞かねばならぬのか。
ロゼリアはアルベルトにエスコートされるままに、壁際に少し高く設置された座り心地の良い椅子に腰掛けているが、挨拶の人数が十を超えた頃にはすっかり飽きてしまっていた。
アルベルトもわざわざ付き合ってやるのを面倒だと思っているのか、挨拶にこそ最低限応えるものの、決して話を続けようとはしない。
貴族たちは名残惜しそうにしつつも、それ以上食い下がることも出来ず、ひとりが挨拶を終えるとまた次の貴族へと変わっていく。
中にはあからさまにロゼリアを気にかける者もいたが、アルベルトが冷ややかに「何か?」と問えば、慌てたように首を振ってその場をあとにするばかりであった。
「……ロゼ、大丈夫ですか?何か、飲み物を持ってこさせましょうか」
唯一といっていい、皇族に自らをアピール出来る挨拶の場。
当然ながら挨拶のために並ぶ列は長く、まだまだ長引きそうな行列に、アルベルトはしばし挨拶を中止させた。
少し前から、ロゼリアが退屈そうにしていることには気がついていた。
元々アルベルトのワガママで──より正確にいうならば、このパーティーを企画した連中のせいなのだが──ロゼリアは興味もないパーティーに参加してもらっているのだ。
入場した時に、あちこちから好奇や敵意の孕んだ視線が向けられていることはわかっている。
ロゼリアはその事で最初から面倒くさそうだったし、その後に続く同じような文言の怒涛の挨拶に、辟易とするのも当然である。
「そうね、頼もうかしら」
「はい!」
ちらりとアルベルトに視線を向け、素っ気なくも聞こえる返事をするロゼリア。
再開すればすぐ挨拶が出来るように──と彼らのそばで待機していた貴族は、ぞくりと背筋を震わせた。
その貴族は長い歴史をもつ名家で、皇族からの覚えもめでたい。
自身も官僚として勤めているだけあり、彼はアルベルトのことを一方的にではあるが、よく知っていたのだ。
だからこそ、この婚約が、婚約者に対するアルベルトの言動が、とんでもない違和感を覚えさせる。
少なくとも彼の知るアルベルトは、他者を寄せ付けず、冷徹で、冷血で、誰かを気遣ったり誰かを慈しんだりということはしなかった。
魔力が異常に高いからという理由で敬遠されていたアルベルトに近づくのは、皇族とお近づきになりたい年頃の令嬢を持つ貴族と、皇族の妻を夢見る令嬢たちくらい。
その貴族たちもアルベルトには確かな怯えを抱いていたし、アルベルトに怯えず、アルベルトの側にあり続けたのは、彼の近衛兵たちのみ。
アルベルトが婚約したというのは知っていたが──彼もまた、その婚約者が魔族だとは知らなかったひとりだ。
それに、様子を見る限り、アルベルトはロゼリアに好意を寄せているのがよくわかる。
「失礼致します。ロゼリア様、アルベルト様、お飲み物をお持ちいたしました」
恭しく頭を下げ、グラスに入った飲み物を差し出すのは、近衛兵のひとりだった。
どこかで見たような顔立ちの男は、おそらくアルベルトの近衛兵なのだろう。
このパーティーの会場で、あちこちで周囲に目を光らせている、近衛兵たちのひとり。
「あら、これ……」
「以前、ロゼリア様がお好みだと仰っていた果実水です。別のものもご用意しておりますが……」
「これでいいわ。ありがとう」
どうやら近衛兵が差し出した飲み物は、ロゼリアもお気に入りのものだったらしい。
アルベルトはグラスに口をつけるロゼリアを愛おしげに見つめ、深々と頭を下げる近衛兵に視線を戻した。
「さすがだな、サム」
「っも、もったいないお言葉……!有難く頂戴いたしますっ」
「ああ。また声をかけるまで下がっていい。異変があれば知らせろ」
「はっ!」
どうやら、その近衛兵の名はサムというようだ。
そこまで声に聞き耳を立て、おや、とほかの貴族たちと顔を見合わせる。
貴族にとって、他者に護られることも、他者に用を申し付けることも、当たり前のことである。
意図と違うことを行う使用人は首を切られてもおかしくはないし、満足のいく出来だとしても、それは使用人にとって当然のこと。
使用人とは等しく貴族にとっての、便利な道具なのだ。
だから、少し意外に思った。
あの他者に興味のないアルベルトが、たかたが近衛兵程度の名前を、覚えているなんて。
しばらくして、ようやく挨拶が再開される。
「ご機嫌麗しく……お久しぶりですわ、アルベルト様」
何人かの挨拶が続いたあと。
今までと違う言葉を発したのは、ひとりの令嬢だった。
その言葉に、周囲に並んでいた貴族がぎょっと目を見開く。
このような挨拶の場でアルベルトを呼ぶ場合は、殿下や皇子殿下と言うのが正しい。
名前で呼ぶとしても、アルベルト殿下やアルベルト皇子殿下というべきだ。
先程の近衛兵の場合は用事を申し付けられた際のものであり、挨拶ではなかったので全く問題は無いが──挨拶、という場に置いては全くもって相応しくない。
その令嬢は元婚約者候補というだけあって、名家のご令嬢である。
相応しい教育を受けているはずであり、だからこそ、候補ではあるものの、婚約者のひとりとして名前をあげられていたのだ。
その言葉は余りに相応しくなく、彼女の視線がまっすぐアルベルトに向けられていることから、それは、ロゼリアに対する挑発なのだろうと周囲は理解する。
相応しい教育を受けているとはいえ、令嬢たちは皆プライドの高いものばかり。
そのプライドを叩きおられたようで、ロゼリアのことが気に入らないのだろう。
だからといって、挨拶の場で堂々と敵対するのは、愚かだとしか言いようのないことなのだが。
「このたびは、ご婚約されたとお聞きいたしました。わたくし、とても悲しくて、とても寂しかったですわ。アルベルト様と婚約するのはわたくしだと、幼い頃から思っておりましたのに……」
彼女がそれを口にしたのは、嫉妬ゆえか、牽制ゆえか。
ロゼリアを一瞥する令嬢の口元には、わずかに笑みが浮かべられており。
それはただの嫌味なのだろう。
ロゼリアは退屈そうに視線を令嬢に向け、アルベルトはすっと目を細めた。