第16話 被験区域
マルタは、その日もいつも通りに起きた。
朝の光は穏やかで、窓の外の景色も変わらない。湯を沸かし、簡単な朝食を取り、仕事の準備をする。特別なことは何もない。
被験区域に指定されてから、もう一ヶ月が経っていた。
最初は不安もあった。だが、説明会で言われた言葉が、少しずつ効いてくる。
「安全性は確認されています」
「生活への影響はありません」
「何かあれば、すぐに対応します」
実際、何も起きていない。
体調は良好。
近所の人も、いつも通り。
店も開いているし、子どもたちも外で遊んでいる。
だから、マルタはもう、この区域が「特別」だということを、ほとんど意識していなかった。
昼前、近所のパン屋に立ち寄る。
「最近、静かですよね」
店主が、何気なく言った。
「そうですね」
マルタは笑って答える。
静か。
それは、悪い意味ではない。
以前は、工事の音や、人の出入りが多かった。今は、それが減った。落ち着いている、と言ってもいい。
パンを受け取り、通りを歩く。
ふと、足を止めた。
理由は分からない。
転びそうになったわけでもない。
何かを見たわけでもない。
ただ、一瞬だけ、**「立ち止まった方がいい」**気がした。
マルタは、首を傾げる。
「……何だろう」
すぐに歩き出す。
気のせいだ。
そのまま、何事もなく家に戻った。
午後、簡単な健康チェックが行われた。被験区域の住民には、定期的な確認が義務づけられている。
「異常なしですね」
担当者が、端末を見ながら言う。
「よかったです」
マルタは、ほっとする。
異常なし。
その言葉を聞くと、安心できる。
夕方、窓から外を眺める。
子どもたちの声。
帰宅する人の足音。
遠くで鳴る鐘の音。
すべて、いつも通りだ。
それなのに。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残っている。
何かを忘れているような。
何かを見落としているような。
だが、思い出せない。
思い出せないことは、問題にならない。
夜、マルタは日記をつけた。
今日も異常なし。
少し静かだけど、暮らしやすい。
書き終えて、ペンを置く。
異常なし。
その言葉が、今日一日をきれいにまとめてしまう。
同じ頃、施設では、被験区域のデータが更新されていた。
生活影響:確認されず
心理的負荷:基準内
追加対応:不要
誰も、その数字に疑問を持たない。
問題は起きていない。
事故もない。
だから、この区域は「成功例」だ。
マルタは、布団に入り、目を閉じる。
眠る直前、ふと、あの感覚が戻った。
立ち止まった方がよかった、という気持ち。
だが、それは形にならないまま、眠りに沈んでいく。
この日も、被験区域では、何も起きなかった。
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