2-10
今日は悪い日だと、アイリスは思った。
朝食に食べた小麦のパンは美味しかったし、天気が良かったから布団も干してきたし、空気はとても美味しかった。
何が悪かったかと言うと、上司に呼ばれて今怒られているという現実だ。
「君は馬鹿だ! 本っっっ当に馬鹿だ!」
場所は天馬騎士団第八師団施設の休憩室。
馬鹿だ馬鹿だとさっきから馬鹿という単語を、裏返った声で三十回は繰り返しているこの男が、恥ずかしながらアイリスの上司である。
背は小さく、威厳を保つために髭を生やしているが、全然似合っていない。それにやや肥えている。
おそらくスリが現れても彼が捕まえるのは無理だろう。
「天馬騎士団が一般市民を脅すとは何事だ! 第六師団のクラウス師団長から報告が上がったんだぞ!」
どうやら店長と話しているアイリスの姿を何事かと思い、“勇気ある市民”が騎士団に報告したらしい。
下手に言い訳をしてもしょうがない。だからアイリスは真っ向から立ち向かうことにした。「適当」とか「程良く」といった言葉から一番遠い騎士。それがアイリス・リベルテなのだ。父親から受け継いだ正義感が、体を駆け巡る血液のように彼女の全身を駆け巡っているのだ。
「天馬騎士団として義を貫いたんです。我々は市民の隣人として、平穏を守る義務があります」
上司は眉を潜める。明らかにイラついている様子だった。
アイリスがまだ若いから。彼女のことを下に見ているから。
「市民を脅すのが君の義務かね?」
「不本意ですが、市民が市民を傷つけているところをこの目で見れば、権力を行使します」
「きっかけが君の直感だけではマズいんだよ!」
「放っておけば人が死ぬ! そうなってからでは遅いんです!」
「それは君の想像上の話だろう?」
アイリスは前に詰め寄り、言い放った。
「死ぬのは私たちの魂です。人を守るという、天馬騎士団の魂です」
アイリスの熱意に、上司はため息をついて、そして言った。
「……君は何ができるのかね?」
「はい?」
上司はアイリスを睨みつける。馬鹿にしたように。
「1000人の騎士の年間労働スケジュールを作れるのかね? 見回り範囲内の犯罪発生率と担当騎士の割り振りができるかね? 災害が発生した場合の土嚢や救援物資を配分できるかね? できないだろう? だが私は出来る。それが上に立つ者の資質だからだ」
上司は、アイリスを指さす。
「リベルテ君。キミはね――心からの善意を振りまくことができる無能だよ」
きっぱりと、言い放った。
その言葉に、アイリスはとうとう堪忍袋の尾が緩む。
「ええ無能ですよ。愚直な騎士という意味ではね。――貴方は違うみたいですけど」
口にした直後、アイリスはほんの少し後悔した。
見てみれば、上司は小さい体を真っ赤に染めていた。口の端に口角泡が見える。
「アイリス――花の名前だったな。花らしく散り際をわきまえろ、君は謹慎だ!」
今日は悪い日だと、アイリスは思った。




