エピローグ~君の願い~
宇多様
年が明けたと思ったら、あっという間に春がきて、陽気に眠気を誘われます。ここ一週間、いい天気だよ。
今日は報告があって、君に届けばいいなと思いながら、この手紙を書いています。
三年前のあの日。詩織さんと一緒にベッドに入った君は、朝、目覚めることなく亡くなってしまったと思っていた。
詩織さんが泣きながら僕を呼びに来たときは、心底驚きました。
君の心臓は再び動いていて、でも、何をしても目を覚まさなかったから。
今も君は、僕らのアパートのベッドの上で眠ったまま。いったいどんな夢を見ているのだろうね。
医者には脳死状態であることを告げられました。
原因はやはり交通事故だろう、ということでしたが、その後、三日も動いて喋っていたことには、そういうこともある、とだけ言われました。
僕も詩織さんも、宇多さんの心臓が止まっていたことは言いませんでした。
君がどんな覚悟であの短い時間を過ごしたのか、誰かに教えるよりも、僕らの胸に秘めておきたかったから。
宇多さんが目覚めた時のために、と詩織さんは気丈にふるまって、必死に毎日踏ん張ってたけど、やっぱり無理をしていて。一度は入院が必要なほどだったから、もしかしたら君も、心配したんじゃないかな。
いや、詩織さんのことは心配するなって言ったのに、約束違反だって僕に文句を言いたいだろうか。
君のことを秘密にしていた僕は、詩織さんにしばらく口もきいてもらえなかった。
だけど。眠る直前まで、宇多さんが僕のことをすごく褒めてたって、詩織さんに聞いた。あの短い間に、君に褒められるようなことが何かあったかな、と思ったけど、僕らの交流が少しずつ再開されたのは、君のおかげかな。
君のことを、たくさん詩織さんから教えてもらったよ。
僕は君のことを三日分しか知らない。詩織さんは君が生まれてから、ずっと君を見てきたんだよね。
写真もたくさん見せてもらった。僕の前では無表情でいることが多かったけど、笑うと詩織さんによく似ているんだって、初めて気が付きました。
それで、君のことをあれこれ二人で話しているうちに……赤ちゃんができてね。
最初から下心があったわけじゃないって君なら知ってると思うけど!
詩織さんは美人だし頭の回転も速いし、雑貨屋のしがない雇われ店長なんか相手にしてくれないとは思ったんだけど、ほら、僕達には時間があったし、君を心配するっていう共通の話題もあって……何を言い訳がましいことを書いてるんだろうね、僕は。
事後報告になってしまったけれど、詩織さんと婚姻届を出しました。
ついでに、というわけじゃないけど、昨日、赤ちゃんの性別がわかったんだ。
男の子だって。君がお姉さんになったら、どんなふうになるのかなって、詩織さんと話したよ。きっと可愛がるだろうっていう意見は一致した。
……これを書いたら、君に怒られるかもしれないんだけど。
君が詩織さんにプレゼントしたかったのは、本当は料理でも給料でも指輪でもなく。
『一人ぼっちにしないこと』だったんじゃないかな。
君は、残していく詩織さんを、本当に心配していたから。
詩織さんが世界で一人ぼっちになってしまわないように、新しい家族を用意してあげたかったんじゃないかな。
だから君は強引にでも隣室のヒーローとの繋がりを作って。
詩織さんが僕を本当に嫌いになってしまわないように、言葉でフォローした。
僕の役割は、詩織さんをすぐそばで支える役。それを君は願っていたんじゃないだろうか。
もしかしたら君は。
先の未来まで必死に考えて、考えて行動していたんじゃないかな。
詩織さんのためだけを考えて。
大事な人の未来の幸せを願って。
僕の勝手な思い込みだったら、ごめん。
もしそうじゃなかったとしても、もう大丈夫だよ。
詩織さんには僕がいる。
君もまだここにいるし、赤ちゃんもいるから。
赤ちゃんは名前を考えているところだけど、指輪を作ってあげようと思う。あの日の別れ際、僕が君のために作った銀粘土の指輪を、君が眠る直前に身につけてくれていたことを知ってるから。
だから、いつでもいい。
眠るのに飽きたら、目を覚ましてほしい。
詩織さんはもっと幸せになるべきだと思うし、君も。
君も、もっともっと、これから先の人生を謳歌すべきだ。
そろそろ、締めようかな。書きたいことはたくさんあるんだ。
手紙って、いい方法かもしれない。君が目覚めた時の報告書になるかもしれないね。
それでは。また、書きます。
木崎 雄一郎
書き終えて、隣の部屋へと顔を向ける。
一部屋を占領した介護用ベッド。そこで宇多は眠っている。日に当たらないため肌はいくぶん白くなったけど、その他はまったく変わらない宇多がそこにいる。
今日は『Paquete』の店休日。詩織さんは会社に出勤している。
宇多が目覚めた時、環境の変化に驚かないように、僕らはもとのアパートにそれぞれの部屋を借りたまま、日々を過ごしている。
黄色いカーテンを開けた窓から、隣家の桜が見える。老木はそうとわからぬほど、満開の花つけている。
遠くから車のエンジン音が近づいて、遠ざかっていく。
ふと、猫の鳴き声が聞こえた。
うららかな春の日だな。そう思った時。
「……あ……」
微かな。本当に微かな声だった。
何気なく視線を向け、僕はがたりと椅子から立ち上がる。
震えるまつげと共に、閉じられていた黒い瞳がゆっくりと姿を現した。
焦点のあった目が、覗き込んだ僕をとらえる。
みるみる盛り上がった涙が、目じりから頬を伝って、枕に吸い込まれていった。
【了】
お付き合いいただき、ありがとうございました。