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夜の闇に紛れながら、ディーナは必死になって走っていた。手にしている子は万が一の時にも落とさないように布で体に縛り付けているが…こんなにも振り回されながらも、その子は一言も泣かずに真っ直ぐな瞳でディーナを見つめていた。
「…ごめんね…ごめん」
ディーナはそう小さく呟きながら、赤子を守るようにして必死に足を進める。鎮静剤を飲んでいても痛みが完全に消えたわけではなく、ずくずくと痛む腹は熱を持っているように感じたが、今ここで足を止めることは出来なかった。
全てが上手くいく保証はない。
ただ、あのままではいられないと思ったのだ。もしかしたら、今回の行動が自分の家族に災いをもたらす結果となるかもしれない。酷く後悔する結果となるかもしれない。
(そう思うのにも関わらず行動してしまうのは…きっと自分が愚かなのだからだろう)
最近は本当に良くそう感じる。最初はただの契約結婚だった。あの人が自分の風よけの様にして側にいてくれれば、自分は好き勝手に事業を進めることができてよかった。
口うるさい夫に振り回される日々でもなく、醜い夫にずっと奉仕を求められるような日々でもなく…周囲で聞くような酷い夫婦の話とはかけ離れた、美しくて誰からも羨まれるような夫だった。
多少、酒や賭博の失敗があっても、金を馬鹿なことに使っても、不満がないほどに彼はただそこにいてくれるだけで良い存在だった。
それがいつしか、厄介な存在に変わってしまったのだ。
どうしても心をかき乱されて、自分だけが妻として確かな立場なのに、彼が他の女性を見ていると不安になって…本当に愚かな存在になってしまった。
今だってそう。この子を攫って、すべてが上手くいく保証はない。
ただ、ディーナはハワードの計画に頷ける部分もあった。
ディーナの父親は冷血侯爵なんて名で周囲から呼ばれている人物であり、ディーナもハワードもそんな父の元で様々な経営の技術や交渉術を学んできた。「味方になるものには得を。敵となるものには苦しみを」なんて信条の父は、必ず交渉の場においては相手の弱みを調べあげて、時には先に手にかけていた。
(ラジェイア公爵はつかみどころがなくて、弱みになるような大切なものも見当たらない人だった。ただ…それは前までのこと。今の公爵にとっては明らかに、この子は弱みとなる存在だわ)
ふと、少し前の話し合いで姉の肖像画を見つめていたラジェイア公爵の姿を思い出す。どこか焦がれるような視線を孕んでいた公爵の本心は、きっと下世話に探るべきものではないだろう。
ただ今は、そんな彼の心を利用する形で、私は今踏みつけようとしていた。
この子を連れて、隣国のラジェイア公爵の姉に会うことができれば…きっと、ラジェイア公爵とは優位な立場で交渉できるチャンスがやってくるはず。そう感じるのだ。
(それまで、私の体が持ってくれればいいんだけど…)
走るたびに腹の痛みがずくずくと強くなり、酷く熱くなっていることが分かる。
ディーナは胸元に入れていた小瓶を出すと、いくつか鎮静剤を取り出して口の中に放り込んだ。苦い薬の味が広がる中で、ディーナは必死に目的の場所へと足を進めていた。




