『力』の片鱗、抑えきれない感情
イサ「何故、感情なんてものがあるのだろうな。そんなものがなければ、悲しむことも傷つくこともないだろうに」
ヒメナ「でも、感情がなければ嬉しいことも楽しいこともわからないままデスよ」
イサ「何もわからないほうが幸せなこともある」
ヒメナ「そうかもしれまセン。でも、何も知らなくて、何も感じない人生なんて、果たして生きていると言えるんデスか?」
イサ「……」
湧き上がる怒りを必死で抑えつけながら、俺は再び夜の街へと繰り出した。
冷気を孕んだ空気が身体にまとわりつくが、俺の内から沸々と溢れ出る『熱』を冷ますことはできない。
頭の中が沸騰してしまいそうだ。
フラフラと肩で息をしながら、なんとか人気のない狭くて暗い路地に移動して、その場に座り込む。
体中が熱い。
全身の血液が逆流する。
今にも『熱』が形となって飛び出していきそうだ。
荒い呼吸のままうずくまり、なんとか暴走しそうになる感情を繋ぎ止める。
「おい、あんた。大丈夫か?」
うずくまったまま顔だけ上げると、1人の男が俺に近寄って来た。
暗くて顔は見えないが、全身から酒の臭いをぷんぷんと撒き散らしているので、どうやらそうとう飲んでいるらしい。
――何故こんな時に!
何のためにわざわざ人気のない場所を選んだと思っているんだとイライラする気持ちを抑えながら、冷静に対応するよう努める。
「大丈夫だ。問題ない」
「だけど、呼吸も荒いし、誰か呼んできたほうが……」
「くどい!」
その瞬間、身体から漏れ出た『怒り』の刃が男の頬をわずかに掠めた。
「……えっ?」
傷ついた自分の頬に触れながら、男が間の抜けた声を漏らす。
どうやら理解が、追いついていないようだ。
「俺に、かまうなっ」
これ以上『力』が外に出て行かないよう、ぎりぎりの所で耐えながら絞り出した俺の言葉で、覚醒したらしい男は小さな悲鳴を上げると、一目散に逃げて行った。
「化け物」という言葉を残して――。
俺の脳裏にあの日の光景が蘇る。
「化け物」と罵り、石つぶてを投げつける村人達の姿が。
石つぶてから俺を庇って鮮血を流したカイの姿が。
その傷ついたカイの姿が、先程見た痛々しい姿のヒメナと重なる。
次の瞬間、周囲の壁や床に亀裂が走り、近くに転がっていた空の酒瓶がパリンと音を立てて砕け散った。
俺はとっさに自分の左腕に爪を突き立てる。
「っ!」
痛みに顔を歪めながらも、俺はさらに爪を腕に食い込ませ、そのまま手前に引いていく。
赤い4本の線が俺の左腕に刻み込まれる。
痛みと滲み出る赤い血を見て冷静さを取り戻した俺は、大きく深呼吸をした。
ズキズキと痛む左腕を眺めながら「またリリィに怒られるな」とひとりごちる。
そして、右手の人差し指・中指・薬指を左手首に添えた。
平常よりもかなり脈が早い。
俺は目を閉じると、自分の脈拍だけに意識を集中させながら、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
その行為を脈拍が平常に戻るまで何度でも繰り返す。
これは昔、リリィから教わった怒りを鎮める方法だ。
それまで、俺は激しい感情の起伏で『力』が暴走しそうになるたび、自らの腕に爪を突き立て、その痛みに意識を集中させることで『力』の暴走を抑えていた。
しかし、俺の『力』を知らない当時のリリィにして見たら、俺のやっていることはただの自傷行為にすぎなかったのだろう。
ひっかき傷だらけの俺の腕を偶然見て驚くリリィに、自分でつけたものだと正直に打ち明けたら、リリィから「どんな理由があっても、自分で自分の身体を傷つけるな!」と叱りつけられた。
俺が反論すると、リリィも言い返してきて、激しい口論の末その日は喧嘩別れとなった。
リリィから、怒りを鎮める方法を聞いたのは、次に会った時だった。
「やっぱり、自分で自分を傷つけるのはよくないわよ。だから、今度からはこの方法を試しなさい。いいわね?」
尊大なリリィの言葉に少し腹が立ったが、俺のことを心配してくれていることはわかった。
実際この方法は、かなり効果があって、生傷の絶えなかった腕も綺麗に治った。
「もう大丈夫だと思っていたのだがな」
完全に直ったと思っていた悪癖がまだ残っていたことに自嘲する。
しかし、カイが怪我をした時やリリィの時のように、無意識に『力』を使わなかっただけ成長はしているらしい。
俺が物思いに耽っている間に、早かった脈拍もだいぶ落ち着いてきた。
今なら、どうしてあんなにも激しい怒りが湧き上がってきたのか、冷静に自分の感情を理解できそうだ。
俺は深呼吸をすると、路地に座ったまま背中を壁に預け、集中するためにゆっくりと目を閉じた。
ヒメナの気持ちに気づいてやれなかった自分自身や、ヒメナの軽率な行動にも腹が立つが、何よりも俺が許せなかったのは、ヒメナのあの一言だ。
「大丈夫デスよ。ちょっと殴られただけですカラ。このくらいなら慣れてマス」
『このくらいなら慣れている』
それは、おそらく俺に心配をかけまいとして、思わず口から出た言葉だったのだろう。
しかし、だからこそその言葉に嘘や偽りはなかったはずだ。
つまりヒメナにとって、この程度の暴力は『慣れる』くらい日常的なことだったということ。
それに気づいた瞬間、激しい怒りが体中に燃え広がっていくのを止められなかった。
不意にいつか聞いた『これまであの娘は、いったいどんな人生を歩んで来たんだろうね』というソルの言葉が蘇る。
俺は何も知らない。
今のヒメナを形作っている物を。
決して、楽な人生ではなかっただろう。
むしろ、辛いことのほうが多かっただろう。
しかし、それ以上のことを俺は知らない。
いや。
知ろうとしなかった。
そもそも、踏み込むつもりがなかった。
手がかりなら、いくつもあったはずなのに。
ミニアル村から始まった旅の道中、ヒメナと交わした会話を思い返し、俺は唇を噛む。
そうだ。
俺が本当に許せなかったのは、ヒメナと共にいることを選んだくせに、ヒメナのことを何も知らず、興味も持たず、歩み寄ろうともしなかった自分自身だ。
「最低だな。俺は」
ヒメナのことをわかったつもりになっていた。
その実、俺と出会う前のことなんて何ひとつ知らなかった。
乾いた笑いが口から漏れる。
憐れむ自分の笑い声を聞きながら見上げた夜空は、暗闇を内包した口をぽっかりと開けて、地上の星を呑み込もうと待ち受けているように見えた。
それからしばらくして、だいぶ落ち着いた俺は自警団の詰所へと向かい、ヒメナを保護したという団員に会って話を聞いた。
その青年は、先ほど俺と会話をした馴れ馴れしい垂れ目男とは違い、精悍な顔立ちに怒りを滲ませながら、ヒメナを保護した時のことを俺に語って聞かせてくれた。
巡回中、男の怒声と大きな物音が聞こえたため、最初は酔っ払いが喧嘩をしていると思い、仲裁に入ろうと近づいて行ったところ、その場から3人の男が走り去って行ったらしい。
そして、男達が走り去って行った後、地面に打ち捨てられ小さく縮こまっているヒメナを見つけたそうだ。
団員が、ただちに駆け寄り助け起こして声をかけると、すぐに返事があった。
ヒメナは、顔を殴られた形跡があるものの、意識ははっきりとしていて、受け答えも問題なくできていたらしい。
服は多少汚れてはいたが、乱れはなかったそうだ。
団員は、逃げた男達の追跡をするため、ヒメナに話を聞こうとしたが、ヒメナが多くを語りたがらず、騒ぎにすることを嫌ったらしい。
そのため、団員もそれ以上ヒメナに話を聞くことができず、どうしてこんな状況になったのか前後関係がまるでわからないまま、しかし、被害者であるヒメナの気持ちを優先して宿屋に送るに留めたそうだ。
「この街でこんなことが起きてしまい、申し訳ない」と精悍な顔立ちをした自警団の青年が頭を下げる。
それを制して、俺もヒメナを助けてくれたことに感謝の意を表す。
そしてこれ以上、自警団から聞き出せる情報はないと踏んだ俺は早々に会話を打ち切り、夜の街へと踵を返した。
夜とはいえ、やはりエルノの街は明るい。
しかし眠らない街も、夜が深まったこんな時間では、さすがに道行く人影もほぼいない。
今この場にあるのは、街灯に照らされて伸びる自分の影と歩く度に響く自分の足音だけ。
俺は立ち止まると、フードを深く被り直し、前を向いて宿屋へと歩を進めた。




