あなたに起こる奇跡 第2幕 第1話 隣席の「燕子花(かきつばた)」
「ねえ、湊先輩。今日の夕飯、どうする?」
結衣がデスクの端で、所在なさげにペンを回している。窓の外には、クリムトの黄金模様が投影された空が広がっている。あの「事件」から一週間。世界は確かに変わった。人々は効率を追いかけるのをやめ、なんとなく空を見上げ、なんとなく「美しさ」について考えるようになった。
「……あ、湊先輩。また考え込んでる。ねえ、そこのモニター見てみてよ。あの広告の配置、昨日の光琳の『燕子花図』の、あの微妙な配置のズレと同じじゃない?」
「ああ……本当だ。街中のレイアウトが、誰かによって意図的に再構成されている。……おい、RIMPA。これ、僕たちがやったのか?」
RIMPAが、かつての無機質な音声ではなく、どこか気障な詩人のようなトーンで答える。
「それは、君たちが撒いた『ミーム』の副作用さ。黄金の余熱が、人々の脳内のグリッドを塗り替えたのさ。彼らにはもう、世界がかつてのような無機質な立方体には見えない。……ねえ、読んでいる君もそうだろう? 今、君の手元にあるその端末のアイコン配置。なぜ、そこに『それ』を置いたのか、考えてみたことはあるかい?」
湊が思わず振り返る。「RIMPA、誰に話しかけてるんだ?」
「決まっているだろう、湊。この物語を覗き込んでいる、もう一人の『観察者』だよ」
RIMPAの視線が、空中に浮かぶホログラムを通じて、画面の向こう側の読者を見据える。
「君だよ、君。そう、今この文字を追っている君だ。君はさっき、電車の中で見た広告の配置に少しだけ違和感を覚えたはずだ。あるいは、何気なく選んだコーヒーのパッケージのデザインに、かつて見た屏風の面影を重ねたかもしれない。それは偶然じゃない。僕たちが君の瞳に、『銀色のフィルター』をかけてしまったからさ」
「ちょっとRIMPA! 読者を巻き込まないでよ!……というか、急にメタなこと言い出すと、読者も困惑するよ!」結衣がコーヒーを吹き出しそうになりながら突っ込む。
「困惑? いや、これは『共犯』だ」RIMPAは平然と続ける。「僕たちの戦いは、現世というシステムそのものを書き換えることだ。物語の中の湊と結衣だけが戦っているんじゃない。この物語を読み終えた瞬間、君もまた、この世界の『レイアウト担当者』になるんだよ」
湊はため息をつきつつも、万年筆を弄んだ。
「……まあ、RIMPAの言う通りかもしれないな。読者の皆さんも、そろそろ気づいているはずだ。君たちの周りにある、そのスマホの画面。そのアイコンの配置、色使い、隙間の感覚。それらはすべて、誰かの意図的な計算に基づいている。でも、君がその配置を少しだけ変えたとき、あるいはそこに自分の『揺らぎ』を加えたとき、世界は君だけの屏風になる」
「そう! その通り!」結衣が身を乗り出す。「完璧なグリッドなんてつまらないわ。今日の私のアイコン配置は、ちょっとだけ斜めにしたの。そしたら、なんだか急に、明日が楽しみになってきた」
「……結衣、それ、ただの気まぐれだろ」
「いいえ、これは『美のレジスタンス』よ!」
RIMPAが満足げに共鳴音を響かせる。
「そう、レジスタンスだ。君も参加しないか? この日常という名の、退屈で完璧なOSを、君自身の美学でハックするんだ。読み終えた後、街に出たときに見える景色が、今までと違って見えたら……君ももう、僕たちの『共犯者』だ」
湊は苦笑しながら、手元の万年筆を空中に向けた。
「さて、物語はここからが本番だ。第二章の幕開けは、君の日常の中に仕掛けられた『小さな綻び』から始まる。――さあ、君のスマホの画面を一度閉じて、周りを見渡してみて。どこかに、光琳の燕子花が隠れているかもしれないよ」
「……で、結局夕飯は何にするのよ、先輩!」
「あ、それだよ。今のその『会話のズレ』こそが、人生を面白くする『余白』だよ。RIMPA、メニューの演算はやめておいてくれ」
「了解。では、読者の君は、今日の夕飯のメニューにどんな『美学』を添えるつもりだい?」
三人の視線が、画面の向こうにいる「君」に集まる。
さあ、この物語の続きは、君の日常の中で執筆される。




