一章 徐福伝説 一話 故郷の空
紀元前二百十年 春。
朝靄がなお海面を覆う早朝、筑紫の金立の地を望む沖合に、まるで霧そのものが動き出したかのような異様な影が現れた。やがて陽光が白い靄を押し退けるにつれ、その正体は次第に姿を現していく。
その数は十や二十では利かなかった。海を埋め尽くすように並ぶ帆影は、まるで一つの国そのものが海を渡ってきたかのようだった。
大小無数の船が隊列を組みながら海原を進み、その数は水平線の彼方まで続いているように見えた。
とりわけ先頭を進む楼船は圧巻だった。甲板には幾層もの楼閣が築かれ、まるで海を渡る城のような威容を誇っている。
その最上部で遥か前方を見据える男こそ、秦帝国の命を受け東海へ旅立った方士、徐福であった。
山の麓に広がる開拓集落は、移住者たちによって築かれてまだ数年しか経っていなかった。整然と並んだ田畑は少なく、家々も粗末な木造のものばかりである。だが、人々の顔には活気があった。
那岐は泥に足を取られながら畦道を歩いていた。朝露を含んだ草が脛を濡らし、足元の土はまだ柔らかい。見渡す限りの水田には春の日差しが反射し、無数の小さな光が揺れていた。
だが、この光景は昔からあったものではない。
数年前まで、ここは草木の生い茂る荒れ野だった。父や村人たちは何日もかけて木を切り倒し、根を掘り起こし、石を運び出した。山から水を引くための用水路を掘り、ようやく田として使える土地へ変えたのである。
その苦労を那岐は幼い頃から見てきた。だからこそ、風に揺れる若い稲を見るたびに、この土地が村人たちの汗と願いによって作られたものだと実感するのだった。
川辺では女たちが洗濯をしていた。石の上で布を打つ音が響き、ときおり楽しそうな笑い声が混じる。畑では男たちが鍬を振るい、子供たちは用水路の脇を走り回っている。
倭人もいれば韓人もいる。斉から流れ着いた者もいる。言葉も風習も異なるが、同じ土地を耕し、同じ収穫を分け合ううちに、少しずつ一つの村になりつつあった。
誰もが何かを失ってこの地へ流れ着いた。だからこそ、皆が新しい故郷を作ろうとしている。那岐はそんな村が好きだった。
「那岐ー。また遅れてるぞ!」
畦道の向こうから、大きな鍬を肩に担いだ男の声が飛んできた。
「あ、ごめん!」
慌てて走る。細身で顔立ちは整っている。だが精悍というより愛嬌が先に立つ、女物の衣を着せれば少女にも見えそうな容姿だった。
「那岐ー!」
振り返ると、長い黒髪を後ろでまとめた少女が竹籠を抱えて駆けてくる。白い肌に整った顔立ち。まだ十六歳だが、村の若者たちが振り返るほどの美しい娘だった。
「漣」
少女は那岐の前で足を止め、少し息を整えてから口を開いた。
「父上が呼んでる」
「またか」
「まただね」
二人は顔を見合わせて笑った。
漣の一家は斉の国の出身、秦による中華統一の混乱を逃れ、この地へ流れ着いた亡命者である。
那岐は倭人で、生まれも育ちもこの国だ。本来なら接点などなかったはずだが、同じ開拓集落で育ち、年も近かった。
「昨日の続き教えてくれよ」
「どこまで話した?」
「嬴政って王様が六つの国を滅ぼしたところ」
「ああ」
漣は少し困ったように笑った。
「那岐、本当にそういう話好きだよね」
「知らないこと知るの面白いじゃないか」
那岐は屈託なく笑った。
「そのうち海の向こうまで行くとか言い出しそう」
「面白そうじゃないか」
「やっぱり言った」
漣は呆れたように肩を竦める。
「知らない土地に行って、知らない人に会って、知らない話を聞くんだろ?」
「いいじゃないか」
「いいのかなあ」
そう言いながらも、漣は笑っていた。
やっぱり、この少年は知り合った頃から変わらない。
きっと那岐にとって世界は広がるためにある。
けれど漣は違った。故郷を失った者にとって、遠い国は憧れよりも先に不安を連れてくる。海の向こうには夢だけではなく、戦乱も別れもあることを知っていた。
だから那岐が遠くへ行きたいと言うたびに、胸の奥が少しだけざわつくのだった。
若葉の風が吹き抜け、遠くでは大人たちが用水路を掘っている。子供たちの声が響き、炊事の煙が空へ昇る。その光景は穏やかで、少なくとも今は平和そのものだった。
二人は丘を登り、開拓村を一望できる場所までやって来た。眼下には新しい水田が広がり、その先には青い海、さらに遠くには霞む水平線が続いている。那岐は草の上へ寝転がった。
「いい空だな」
「毎日見てるのに?」
「毎日違うだろ」
那岐がそう言うと、漣も隣へ腰を下ろして空を見上げた。
「那岐は変だね」
「そうか?」
「そうよ」
漣は流れていく雲を目で追いながら続けた。
「でも、そういうところ嫌いじゃない」
那岐は少し照れ臭くなり、誤魔化すように空を見上げる。
「そういえば昨日の続きだけど」
漣は思い出したように言った。
「嬴政はもう王じゃないんだよ」
「王じゃない?」
「今は始皇帝。六つの国を滅ぼして天下を統一したから、自分を最初の皇帝だって名乗ったの」
聞き慣れない言葉に、那岐は首を傾げた。
「皇帝って王より偉いのか?」
「たぶんね。少なくとも本人はそう思ってるはず」
漣は苦笑する。
「その秦って、本当にそんなに大きい国なのか?」
「父上は、馬を走らせても何ヶ月もかかるって言ってた」
那岐は思わず目を丸くした。
見たことのない町や山、人々がどこまでも続く世界。その光景を想像するだけで胸が高鳴る。
「やっぱり驚いたでしょ」
「驚くだろ」
漣はそんな那岐を見て小さく笑った。
「だから那岐は子供なんだよ」
「またそれか」
「でも父上が言ってた」
漣の声が少し真面目になる。
「始皇帝は最近、不老長寿を求めているらしいの」
「不老長寿?」
那岐は思わず吹き出した。
「そんなの神様じゃないか」
「私もそう思う」
漣も笑う。
「でも本当に探させてるみたい」
「何を?」
「不老長寿の霊薬」
那岐は少し考え込み、真顔で言った。
「それがあったら爺さんたち大喜びだな」
漣は呆れたように肩を落とした。
「そういう話じゃないと思う」
二人は顔を見合わせて笑った。
「そういえばさ」
「ん?」
「最近、港の方が騒がしいよな」
漣の表情が少し変わる。
「那岐も聞いた?」
「親父たちが話してた」
ここ数日、村では沖合に現れた船団の話でもちきりだった。漁から戻った男たちは酒の席でその話を繰り返し、老人たちは難しい顔で耳を傾けている。
交易船なら珍しくない。だが今回現れた者たちは違うらしい。
どこの国の者なのか分からない。何のために来たのかも分からない。しかも各地を巡りながら何かを探しているという噂まで流れていた。その得体の知れなさが、人々の不安を掻き立てていた。
「父上も気にしてた」
漣は頷いた。
「秦の船かもしれないって」
「秦?」
「分からない。でも大陸から来た人たちが何人も邑長のところへ行ってるみたい」
那岐の胸は思わず高鳴った。
大陸……漣が語ってきた物語の舞台。始皇帝が国々を統一したという広大な世界。その世界から来た者たちが、今まさにこの村の近くにいるのだ。
見たこともない景色や聞いたこともない話が、海の向こうには広がっている。そう思うだけで胸の奥が熱くなり、抑えきれない期待が湧き上がってくるのだった。
「いつか見てみたいな」
水平線の彼方を眺めながら、那岐はぽつりと呟いた。
漣は苦笑した。
「絶対そう言うと思った」
「だって気になるだろ」
「那岐は昔からそうだもん」
「面白そうじゃないか」
那岐は笑った。
「知らない人について行っちゃ駄目だからね」
「子供じゃないぞ」
「十分子供だよ」
「漣より一歳下なだけだろ」
「その一歳が大きいの」
漣は軽く那岐の額を小突く。
そんな他愛もない言い合いをしながら丘を下る。
その時、村の方から銅鐘の音が響いた。
カン――――。
カン――――。
人を集める合図だった。普段は滅多に鳴らない。
那岐と漣は顔を見合わせた。
「何だろう」
「広場かな」
広場へ向かう途中、村の男たちが槍を持って集まっているのが見えた。近づくにつれ人の数はさらに増え、子供たちは親の後ろへ隠れ、大人たちも小声で囁き合っている。
広場の中央には、見慣れない一団が静かに立っていた。
武器を抜いているわけではない。怒鳴っているわけでもない。それでも村人たちは本能的に感じていた。
この者たちは自分たちとは違う。田を耕し、山へ入り、海で魚を獲って生きる者たちとは異なる世界を知る人間だ。その得体の知れなさが、人々の胸に警戒心を芽生えさせていた。
だが那岐だけは違った。人垣の隙間からその姿を覗き込みながら、胸の高鳴りを抑えられずにいた。
「秦?」
「分からない」
漣はそう答えたが、その表情はどこか硬かった。
「あれが大陸の人か」
「秦から来た者たちらしい」
誰かがそう囁いた瞬間、漣の指がわずかに那岐の袖を掴んだ。
「船で来た連中だぞ」
那岐は思わず前へ身を乗り出した。
その中央に立つ男が一歩進み出る。四十代ほど、穏やかな顔立ち、だが、その目だけは海の向こうを見続けてきた者のように深く、男は周囲を見渡し、ゆっくり頭を下げた。
「突然の訪問をお許しいただきたい」
流暢ではないが倭の言葉だった。広場が静まり返る中、男は続けた。
「私は徐福。秦帝国の命を受け、東の海を渡って参りました」
その名を聞いても、村人たちは何のことか分からず顔を見合わせた。
秦……漣が語っていた大国。始皇帝が天下を統一して築いた帝国。その国から来た使者が今、目の前に立っている。
徐福は穏やかに微笑んだ。
「しばらくの間、この地に滞在する許しを願いたい」
徐福の視線が、ふと那岐と漣の方へ向いた。
那岐は思わず息を呑んだ。
物腰は柔らかく、親しげな笑みさえ浮かべている。だが、その目だけは別だった。村人たち一人ひとりを観察し、何かを見定めるような視線に、那岐は言いようのない不安を覚えた。
隣では漣が黙ったまま徐福を見つめている。握り締めた指先が、わずかに震え、つい先ほどまで笑っていた少女の顔から、笑みが消えている。
この時の那岐はまだ知らない。
この出会いが、漣との穏やかな日々を終わらせることを。
そして、故郷になりかけていたこの空の下に、二度と戻れない別れを連れてくることを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




