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 存在感はないし不潔だし、背が高いだけが取り柄。

 これは千寿院音光のことである。

 彼が廊下を歩けば、まるで死神でもみたように怖がる者もいて、そうかと思えばあからさまに嫌悪の表情を見せる者もいる。まあ常にやる気のない顔をしているクセに目つきが悪く、長く伸びた前髪から覗く目はまるで人を呪い殺そうとしているかのようなので、仕方のないことだろう―――放課後、音光は、日常茶飯事となった生徒達のその視線の中を平然と歩き、職員室に向っていた。

「知ってるか? 二組に転校してきた子」

「ああ。あの死神のとこ? あー、なんであんなクラスに入っちまったんだよ、まだ俺んとこの方が幸せだって」

「っつーかあのクラスさ、新菜千優もいいよな。地味だけど」

「結構人気あるよなー、新菜も」

「そういや初瀬七海、来週、写真集の握手会やるらしーぜ」

「マジで? 写真集かー、水着とかきるのかな」

「くー、楽しみぃ」

 男子生徒達の煩悩丸出しの会話がそこかしこで聞こえる。

 今や学校中が初瀬七海の話題でもちきりになっている。

 一方で、女子生徒はというと、

「知ってる? あのビッチアイドル」

「あー、知ってる。あの死神のトコに転校してきたんでしょ? マジ笑える」

「っつかさ、目立ち過ぎなんだよね。アイドルだからっていい気になってさ」

「なんかさー、あの地味っ子と隣の席らしーよー? 弁当も一緒に食ったって」

「なにそれ笑える、お似合いなんじゃね? 嫌われ者同士さー」

「ぎゃははははは! 嫌われ者ってアンタ、ひどすぎ」

 ほとんどが、こんな感じである。

 これなら煩悩丸出しの男の方が、まだ可愛らしく思える。

 なんてことを考えながら、ため息をつきつつ職員室の扉を開ける―――と、出てきた誰かと肩がぶつかり、反射的に謝って顔を見た。

「ああ、すいません」

 白衣姿の、四十過ぎの小柄な男だった。

 黒縁メガネ、寝癖だらけの頭、四十過ぎだが幼さも見える顔、薄汚れた白衣、裾の余ったズボン―――彼の名は万屋喜太郎、理科の教師である。

「いえ、俺こそすいません。考え事をしてて」

「芸能人が転校してきたんでしたか。まあ、これから大変でしょうな」

 万屋はそう言って、去ってゆく。

 これから。

 その言葉は、音光の胸にずしりと重くのしかかった。

 そして職員室に入ろうと、そちらに目を向けると。

 職員室中の目が一斉に音光に向けられた。それもはっきりとわかるように目が向けられたのではなくて、視線だけが集中したのだ。

 妬みもあれば不安もあり、そこには様々な感情があるように思えた。

  まあ、これが、普通に人間関係を築けている人ならば問題はなかったのだろう。それが人と殆ど関わらない上に不潔で生活態度も最悪で生徒にもあまり好かれてはいない人間だから、問題なのだろう。

 とはいえ、今更、生活態度や人間関係を変えようとは思えない。

 そんなことを考えるのも、するのも、面倒なだけだ。

 音光は残りの仕事を終えるとすぐに帰り支度をし、逃げるように職員室を後にした。

 この頃にはもうほとんど生徒も帰っていて、校舎から正門までの広い道には人っ子一人いなかった。夕日に染まった校門前広場、手入れされた植木や謎のオブジェ、踏み込めば落ちていきそうなほど黒く濃く地面に張り付く影―――遠くでカラスがないて、蝉の声も聞こえて、運動場の方からは野球部の元気な声が聞こえて、何気なく薔薇の植わった英国式の花壇を見ればそこに目だけを出してこちらをじっと見つめる初瀬七海がいて―――放課後は、カオスだと思った。

「なにやってんだお前………ああ、あれか、マスコミから逃げてる的な」

「マスコミなんて執事の一之瀬と使用人達で鉄壁の包囲網作ってくれてるから大丈夫よ。ただ、学校生活には一切手出しも口出しもしないようにキツく言ってあるからね、ここでは自分の身は自分で守らなくちゃならないのよ」

 言いながら、薔薇を頭や服に引っ付けたままスックと立ち上がる。

 そんなところに隠れていたから手足がかすり傷だらけになっているが、彼女はまったく気にしていないようだった。

「身を守るって、なにからだよ」

「下衆な豚共からに決まってんでしょ。ぼーっと突っ立ってたら男がしつこく声かけてくるわ、女子生徒にいたっちゃ『アタシの彼氏とらないで』とかワケわかんないキモい言いがかりしてくるし死ねよクソビッチ共がアタシはてめぇらの恋愛ごっこなんざにゃ興味ねーーーーーーっての! ニキビ面のヤることしか頭にねぇような低能クソ虫なんざ吐き気がするんだよ! 本気で好きか、ソイツが好きか、いーーーーやテメェは『彼氏マジ愛してる』とか言って恋愛ごっこしてぇだけだろつまりはクソビッチなてめぇ自身のことが一等大好きなだけだっっっっ! ぬおああああああああああああああああああ! うっぜええええええええええええええええええええええええ!」

 もう清純派アイドルの欠片も残っちゃいない不細工な面で頭を掻き毟る七海。

 こんなところを誰かに見られたら、ということはもう、考える余裕もないらしい。

「………本性隠す気ゼロだなお前」

「アンタに隠したってしゃーないって言ってるでしょ」

「っつか、今日転校してきたばっかでもう言いがかりつけられてんのか」

「女なんてそういう生き物よ、どこでもね。自分より可愛い女が気に入らないのよ。恋愛してる自分に酔い潰れて、自分より可愛いあの子がアタシの彼氏を誘惑してる――ような気がするっていうか、きっとそうに違いない―――そして友達と徒党を組んで攻撃してくんのよ。あー、うざいったらない!」

「あー、なるほどな。そんで、俺にそのこと相談しようと」

「勘違いしてんじゃないわよ。アタシは別にアンタを頼ろうなんて思っちゃいないわよ」

「じゃあなんだってんだ」

「決まってるでしょ、アンタを待ってたのよ」

「だからなんで」

「一緒に帰るために決まってるでしょ」

 極々当たり前のように七海は言う。

「………は? なんで」

「帰る場所が一緒だからに決まってんでしょ」

 と、おかしなことを聞くわね、と言いたげに訝しげな顔をする七海。

「ああ、なるほどな。帰る場所が一緒ならしゃーねえな………って、なんだって?」

「だから帰る場所が一緒だからに決まってるでしょ。今日からアタシ、アンタん家に住むんだから。一之瀬が最低限の荷物だけ運んでくれてるはずよ。さ、帰りましょ。お腹すいたわ」

 まるで当たり前のように。

 まるで世間一般の常識だというように。

 彼女はさらりと衝撃的な台詞を吐いた。

「なん………今、なんつった?」

「だから。今日からアンタの家に住むって言ってるの。伯父様から話は聞いてるでしょう」

「は、あ、あぁあああああああっ?」

 なんじゃそりゃ、という感情も言葉にならず間抜けな悲鳴に変わる。

 どういうことだ聞いてない、と、いるはずもないのに思わず校舎を見上げて藤十郎を探した―――いた。藤十郎は三階の教室の窓辺に立っていて、爽やかな笑みを浮かべながら、『ごめん。言い忘れてた。七海をよろしく頼むよ』と直筆の書を掲げて見せた。

「ふぉおおおおおおおおおおおおおおおっ? おあぁあああああああ、ふぉあぁあああああ、おぉおおおおおおっ?」

 その悲鳴を訳すと『いやいやどういうことだよ、普通に考えて四十二のオッサンと十六の女子高生が二人きりで住むとかありえないだろう? それに生徒と教師の間柄で、しかも相手は芸能人、世間にバレたら色々ヤバすぎるじゃないか。お前がもしまだボケていないというのなら、お前がもし、まだ常識を知っているのなら、今までの話は実はドッキリでしたと笑ってくれるはずだ。その書にはもう一枚あってそこには『ドッキリ』と書かれていなければおかしいはずだ』である。

 けれどもその悲鳴も空しく藤十郎は爽やかに笑ったままグっと親指立てて『ガンバ!』とだけ書かれた書を見せてくれるのだった。

「あ? なに、もしかして聞いてなかったの? まったく藤十郎伯父さんにも困ったものね。まあいいわ、早く行きましょう」

「って、ちょっと待て? お前、今日あったばっかりのオッサンとよく一緒に住めるな? いくらお前がお嬢様でも危機感くらいはあるだろう、それともないのか」

「ああ、それなら大丈夫よ。藤十郎伯父様からは、見た目とは裏腹に真面目で常識のある男だって聞いてるし」

「そういう問題じゃねえだろ、ていうかそもそもなんで俺の家に? 寮はよ」

「寮なんてつまらないでしょ。私はね、庶民の生活を味わいたいのよ。伯父様に聞いたわよ、アンタは庶民の中でもかなり底辺に属する部類だって。だから選んだんじゃない」

「あー、じゃあ七海の家はよ。アイツん家、父ちゃんいねーし母ちゃんは仕事で海外にいってていないし部屋も余ってるし。俺のアパートの隣だし」

「でも仕送りされて不自由はないでしょ。少しくらい不自由で汚い生活がいいのよ。だからアンタがいいって言ってんの、わからない男ね」

「俺にはお前が理解できんのだがな………」

「とにかく。私の実家はこっからじゃすごーく遠いの。東京の田園調布の一等地のど真ん中にあるのよ。そっからここまで通えっての? 冗談じゃない」

「冗談であれ………」

「いーから、つべこべ言わずに歩く。早く案内してよ、疲れたんだから」

「けどな。これがマスコミに知れたら」

「言ったでしょ、執事の一之瀬と使用人達が鉄壁の包囲網で守ってくれてるって」

「学校に知れたら」

「秘密っていうのもワクワクしない?」

 七海は楽しそうに笑う。

 これがまだ七海と同い年ならば、多少は喜べたかも知れないし、あらぬ妄想を膨らますこともしたかもしれない。だが四十も過ぎて立場が生徒と教師では、夢を抱くよりも悪夢が頭を過るだけである。

 世間にバレたら、相手が芸能人なだけあって、問題は学校の中だけでは納まらないだろう。だがよく考えれば理事長公認なのだから―――バレたら藤十郎も職を辞して、この学校の存続も危ぶまれるかもしれない。

 いや、まあ、藤十郎とか学校の存続はどうでもいいのだが、とにかくそんな秘密ごとを抱えてヤバい生活をしなければいけないなんて、辛すぎる。

「理事長である伯父様が認めてるんだから、バレてもなんとかなるでしょ」

 なんて楽観的なことを言って、ようやく花壇から出てくる。

 幸い薔薇は一本も踏まれておらず、彼女が出てくると、元通りの状態になった。

「さ。早く案内しなさい、アンタの豚小屋に」

 無邪気に笑う。

 まるで隠れ家にでも行くような、無邪気な笑顔だ。

 危機感なんて微塵もないのが、嫌というほど伝わってくる。

 というか―――よくこれだけ、表情を変えれるものだと感心する。

 他の生徒の前ではアイドルの顔を見せ、さっきは女子生徒の妬みにぶち切れ、今度は無邪気に笑う。でもアイドルの顔以外の彼女の顔はどれも、本物だと思った。作らない、飾らない、本来の彼女の顔。アイドルの顔より、人間らしくていいような気がしたが、しかし音光は一瞬のその気持ちを口にすることはなかった。なぜなら、口にする必要なんてなかったからだ。

「………期待するほどいいもんじゃねーぞ」



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