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俺だけ自分のステータスが見える 〜回復だけバグった最弱候補生、時速70kmのプロ競輪で年収二億を目指す〜  作者: 猫の飼い主
第二部 単騎の化け物

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第40話 朝っぱらから本物の競輪

 未明の雷は海へ抜けて、バンクには太い雨だけが残っていた。


 最終日の朝、目が覚めて、俺はいつもの点呼をとった。腿、ふくらはぎ、腰、肺。——どこにも、昨日がない。二日ぶんの雨のレースが、脚のどこを探しても残っていない。画面を開くまでもなく分かる。今朝も、新品だ。


 宿舎の部屋割りは、同県同士だ。四人部屋の残り三つの寝床は、千葉の先輩たちで埋まっている。デビューひと月の俺より後の期は、まだこの世に存在しない。この部屋では、いつでも俺が一番下だ。


 洗面所で顔を洗っていると、同部屋の先輩が鏡越しに話しかけてきた。


「なあ片瀬。今日……九連勝、なんだろ。緊張とか、しないのか」


「する理由を探したんですが、見つからなかったので」


「……マジで言ってるとこが、こわいわ」


 緊張は、するだけ経費だ。落ち着きは無料で、しかも性能がいい。


 チャレンジ戦は、午前に組まれている。平日の朝、豪雨の競輪場。スタンドの客は、数えられるほどしかいない。合羽の色が、ぽつり、ぽつり。世間の大半がまだ通勤電車の中にいる時間、九連勝の懸かったレースは、雨音の中でひっそりと発走を待っていた。


 敢闘門をくぐって、雨の中へ出る。


 ここから先は、耳が仕事をやめる場所だ。バンクに出た瞬間、雨と、自分の呼吸と、タイヤの音以外が、きれいに落ちる。声援も野次も、走っている人間には届かない。客席の声が聞こえるのは、他人が走っているあいだだけだ。


 だから、先に気づいたのは目のほうだった。


 客席で、緑色の合羽が手を振っている。振り方に、見覚えがあった。コンビニのレジ越しに一年間見た、あの振り方だ。来ている。この雨の、平日の朝の、取手に。


 ……俺の頭の上の昼飯代が、今日はいつもより、少し重い。よし。


---


 九戦目。梶さんのラインは、最後まで正しかった。


 発射台は渡さない。外は張る。内は締める。三日間の研究の集大成。ただし、三日目には三日目の問題がある。連戦の脚だ。彼らの三日目は、二日ぶんの消耗の上に建っている。俺の三日目は、今朝も新品だ。


 周回中から、仕掛けは始まっていた。梶ラインの三番手が、俺の外にぴったり張る。俺が下がれば下がり、上がれば上がる。影だ。発射台どころか、助走の一歩目から消しに来ている。三日目にして一番丁寧な包囲——十八年の家賃は、最終日に一番の仕事をする。


 誘導が外れた。俺は影ごと連れて、大外の雨の中から、全部踏んだ。


 知っているはずだ。七人全員、俺がこうすることを知っている。知っていることと止められることは、別の話だ——とりわけ、脚が昨日までの家賃で目減りしている朝は。


 外の影が、まず千切れた。前の蓋が、慌てて踏み出す。その背中を、雨ごと呑む。バンクの一番高いところから、水の膜を裂いて降りていく。時速七十の雨は、痛い。痛いが、痛みは減点じゃない。ただの天候だ。


 鐘。水煙の中で、隊列が千切れていく。一車だけ、ついてきた。


 梶さんだった。ラインを捨てて、単騎で、俺の後輪に。十八年目の意地が、俺の巻き上げる水しぶきの中にいた。


 最終直線。背中の気配が外へ出る。伸びる。雨と、二人ぶんの呼吸と、どこまでも重い風。それでも俺の回転は、落ちない。落とさない。


 一車身と少し、残して、ゴール。


 九個目。


 雨のスタンドで、合羽がいくつか動いた。拍手も起きていたのだと思う。たぶん、まばらに。


 俺には、何も聞こえない。走り終えた直後の耳は、まだ世界を切ったままだ。金網の向こうで緑の合羽が両手を振り回しているのが見えて、口が「兄ちゃああん」の形に動いているのが見えて、音だけが、どこにも届かない。


 この朝、ガラガラのスタンドで、年季の入っただみ声が叫んだらしい。


「——朝っぱらから、本物の競輪を見た!!」


 俺がそれを知るのは、もう少しあとだ。聞いていない声のほうが、一生忘れられなくなることがある。


 流し走行で速度を殺していると、梶さんが横に並んできた。しばらく、雨音の中を二人で回った。


「……あんた、ほんとに三日目が一番速いな」


「仕様です」


「化け物め」呼吸はまだ荒いのに、声はどこか晴れていた。「十八年やって、初めて見たよ。三日目に新品の奴」


---


 検車場に戻ると、係の人が半分呆れた顔で教えてくれた。三場所連続完全優勝、九連勝。規定により、A級2班への特別昇班。本デビューから、ひと月の出来事だった。


 A級2班。チャレンジより賞金の張るレースを走る資格。茶封筒が構造的に厚くなる階段を、一段。……あの夜、特急の窓に頭を預けて「あと九つで事件になる」と数えた。九つ、獲った。事件は、成立だ。


 ドリンクの最終便を配って回る。梶さんは、俺の顔をしばらく見てから、受け取った。


「……ええ脚だ。はよ、上がれ」


「はい」


「お前みたいなのがこのクラスに長居すると、俺たちの家賃が上がってかなわん」ベテランは、雨で濡れた顔のまま笑った。「上はな、ここより風が重いぞ。ラインってもんの意味を、嫌でも知ることになる。単騎のままじゃ、いつか天井に当たる。……ま、あんたのことだ。それも面白がるんだろうが」


「梶さん。三日間の雨の走り方、全部ノートに書きました。授業料を払いたいくらいです」


「変な奴だ」今度は声を出して笑った。「達者でな、九連勝」


 三日間、潰しに来ると通告して、三日間、本当に潰しに来て、最後に「はよ上がれ」と送り出す。十八年の家賃の払い方は、綺麗だった。いつか俺が誰かに潰されに行く日が来たら、この払い方を思い出すことにする。


---


 賞典室の茶封筒は、少しだけ厚かった。完全優勝の賞金に、三日ぶんのアメカン。雨は最後まで、収入だった。


 正門を出ると、緑の合羽が待っていた。


「兄ちゃん!! 見たで!! ワシ、生で見るんは初めてやったんやけどな……」おっちゃんはフードの奥で、くしゃっと笑った。「速いなあ、あんた。画面の百倍やった」


「車券は」


「今日のは三千円が九千円や。……地味やな!」


「すみません。人気になってきたので」


「そうなんよ!! あんたが出世するほど配当が下がるんよ!! ファン心理として実に複雑や!!」


 複雑と言いながら、おっちゃんは払戻機の列に、スキップみたいな足取りで並んだ。


 帰りは、常磐線で一緒だった。九連勝で特別昇班を決めた男と、その頭固定で九千円獲った男が、濡れた各駅停車に並んで揺られて帰る。おっちゃんは車内で今朝のレースの録画を三回再生して、三回とも同じ場所で唸った。誘導が外れた、あの瞬間だ。プロの世界は、こういう日も、ちゃんと娑婆と地続きにできている。


 玄関を開けると、炊飯器の湯気の匂いがした。


「おかえり、二班さん」


「ただいま。……その呼び方で行くのか」


「上がるたびに呼び替えてあげる。次は何班なの」


「一班。その上がS級の二班、一班、で、てっぺんがS班」


「見た目じゃ分からないの? 階級章みたいなの、ないの」


「パンツだ」


「……パンツ」


「レーサーパンツの色が、級班で決まってる。A級は黒地に緑の線。S級に上がると、線が赤くなる。てっぺんのS班だけ、生地ごと赤い」


 言いながら、遠征鞄の中身を思い出した。今日、九つ目を獲ってきた一枚も、明日から穿く一枚も、黒地に緑の線だ。A級の三班が二班になっても、そこは一ミリも変わらない。


「じゃあ今日の昇班は、見た目には出てないのね」


「出てない」


 目盛りの外で伸びるのには、慣れている。


「先は長いわねえ」母は言いながら、俺の茶碗に一杯目をよそった。「ま、ゆっくりおやり。ご飯はうちが一番よ」


 五升半の設備が、今日も静かに仕事をしていた。長い先の話を、うちの台所は誰も急かさない。


---


 携帯には、三日ぶんの娑婆が詰まっていた。


 御影。『九連勝おめ!!! ってことはA2でしょ、俺の通った道!!』『てか本デビューからひと月て、チャレンジ通過、俺より早いんだけど!? そういうとこあるよね湊!!』『ちなみに俺の今日の話をするけど——』以下、S級の自慢が四通。二通目まで読んで返した。『チャレンジ通過記録はもらっておく。総合記録はまだお前のだ。自慢は要約して再送しろ』


 熊井。『九連勝!? おかしいだろ、俺まだ二勝だぞ!? ……なあ片瀬。プロの単騎って、こんなに難しいもんなのか』——柔道の体幹も、接触の強さも、ヨーイドンの単騎戦では使いどころがない。あいつの武器が正しく値付けされる市場は、たぶん別の場所にある。『お前の強さはヨーイドンの外にある。焦らず探せ。俺も探しておく』とだけ返した。


 日野。『地元、走ったぞ。三着。……三着なのに、親父が泣いてた』。写真が一枚。雨上がりのスタンドの前で、照れくさそうな日野と、日野を五割増しにした顔のお父さん。いい写真だった。初めての金の使い道は、聞かないでおく。


 檜山。『九連勝、映像で全部見た。雨の三日間は特に資料価値が高い。宿題の資料が、増える一方で困る』——困る、と書いて、喜んでいるのが分かる文面だった。教科書側の人間は、どこまでも教科書側だ。


 澪(取引先)。『特昇、見た。本デビューからひと月でA2は、ガールズ換算でも規格外。……先に言っとくけど、追いつくから。こっちも三連勝中』


『九月までに九にする、とかは言わないのか』


『言わない。私は宣言より先に走る主義』


 ……こっちの取引先も、大概の規格外だ。


---


 最後に、大和からの一通が残っていた。


『お前、切り抜きでバズってんぞ』


『切り抜き?』


『ミッドナイトのやつと、今日の雨のやつ。あと、なんか呼ばれ始めてる。「深夜の」なんとかって』


『なんとかって何だ』


『自分で見ろ。ちな再生数、いま二十万』


 二十万。……取手の今朝のスタンドは、合羽を数えても二桁だった。現地で見た人間より、画面で見た人間のほうが、四桁多い。俺の営業は深夜と雨の隅っこでやっているのに、観測だけが、勝手に膨らんでいる。


 他人が俺に付けた名前、というものに、俺は生まれて初めて興味が湧いた。あだ名は、世間の帳簿に載った屋号だ。屋号は、営業の看板になる。看板の文字くらいは、自分の目で確認しておくべきだろう。


 俺は風呂上がりの畳に座り、麦茶を一口飲んでから、検索窓に自分の名前を打ち込んだ。

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