第34話 百一
決勝の日の朝も、俺は四時五十分に目が覚めた。
霧のバンクには、もう先客がいた。熊井、日野、大峰、瀬川。決勝を走る奴も、走らない奴も、全員いた。誰も示し合わせていないのに、全員いた。
最後の朝練は、五人で、ただ静かに回った。十か月前、ブレーキのない自転車に怯えていた五人が、今日は霧の中で、誰も口を開かずに、同じペースを刻めている。
上がり際に、日野が言った。
「なあ。……この朝、今日で最後なんだな」
「うす」
「……(頷き)」
「湿るな。飯行くぞ」熊井が全員の背中を叩いた。「片瀬、今日は何杯だ」
「五杯」
「全員に伝わったな! 総員、五杯!!」
伝わった。適性組の暗号は、最後まで白米だった。
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女子決勝が、先だった。
風見澪は、風見澪のまま勝った。
女子の決勝も、包囲網の完成形だった。秋のロードで空振りさせられた技能組は、もう予備動作には反応しない——だから彼女は今日、フェイントを一度も使わなかった。学習した包囲の、その学習の裏をかいて、真正面から。最終周、集団の呼吸が一番深くなる場所——あの一点で静かに抜け出して、誰にも並ばせずにゴール。
女子卒記チャンピオン。表彰台の上の澪は、泣きもせず、笑いすぎもせず、まっすぐ前を見ていた。客席を埋める側の一人目になると決めた女の、一つ目の段だった。
観戦エリアから戻る途中、通路ですれ違った。
「見てたわよ、って言う番、今日は私が先ね」澪は歩調を緩めずに言った。「片瀬。ゴール前の特等席で見てる。——約束、今日中よ」
「事務手帳どおりに執行する」
優勝しか許されない約束の仕方をする。いい取引先だ。
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男子決勝、七車。
発走機に車輪を預けて、俺は一度だけ、深く息を吸った。
右に矢部。手帳は八冊目に入ったらしい。左に檜山。癖のない男は今日も正しい顔をしている。外に真壁。一晩で肩を直してきたかどうかは、走れば分かる。後ろに熊井。あいつの蓋は、もう俺の身体が覚えている。
全員が、俺の十か月を知っている。俺も、全員の十か月を知っている。
隠すものは、何もない。展示会の最終日だ。
号砲。
開幕から、答案の見せ合いが始まった。檜山が俺の番手を確保しに来る。矢部がその後ろの三番手に潜る。俺が前に出ることを、全員が前提にした布陣——読まれている。望むところだ。
俺はゼロ距離で先頭をもらい、切れ目のない加速で鍋に火を入れた。二周、三周。檜山は無風の特等席で、正解のまま漬かっている。二日目の脚。俺だけが、今朝も新品だ。
残り二周。外から、大きな影が動いた。
真壁。力の早駆け。俺のペースの上から、主導権ごと奪いに来る——肩は、上がっていなかった。本当に一晩で直してきやがった。読みの照準がひとつ消えて、俺は素直に痺れた。いいぞ、真壁。それでこそ、最後のレースだ。
俺は引かなかった。真壁の上げに、俺も上げて応えた。並走。風の押し付け合い。矢部戦で覚えて、真壁の隣で磨いて、檜山戦で完成させた我慢比べの、卒業試験。バンク全体が、二人のハイペースに丸ごと巻き込まれていく。
鐘。
真壁の呼吸が、風越しに、一段深くなった。限界の音だ。俺は知っている。俺の身体は——まだ、鳴っていない。
最終周。真壁が下がり、入れ替わりに、後ろの気配が牙を剥いた。檜山が外へ。矢部がその後ろへ。貯め切った二人の、教科書どおりの完璧な差し。最終コーナー、三車が横に並びかけて——
俺は、残りの全部を、路面に叩きつけた。
腿が焼ける。肺が笛を鳴らす。風の壁が、質量のすべてで押し返してくる。それでも回転は落ちない。落とさない。十七年、一度も俺を裏切らなかった数字が、今日も俺の脚の中で仕事をしている——
最終直線。
檜山の伸びが、矢部の伸びが、俺の横で——止まった。
三日目の、新品の脚。真壁との並走で覚えた我慢。矢部に教わった「前の人間」の自覚。檜山戦で磨いた持続。御影の背中をなぞった、十か月ぶんの朝。積み上げてきた全部が、この数十メートルで、初めて一つの前輪差に換わっていく。
俺だけが、まだ伸びていた。
ゴールラインを、半車身、俺の前輪が先に割った。
——勝った。
張り詰めていた糸が緩んで、流し走行に入る、その瞬間。俺は無意識に、念じていた。残量を。俺の現在地を。視界の端に、持久の行だけが滲んで、浮かぶ。
100.0
届いた。目盛りの、てっぺん。俺の画面の、世界の果て——
と、思った、次の瞬間。
101
「————は?」
声は、場内の歓声にかき消えた。
百一。存在しないはずの数字が、視界の端で、確かに光っていた。目盛りの向こうに、まだ道があった。俺の「落ちない」には——果てが、ない。
今日の一着は、十か月の俺が獲った。
そしてこの数字は——これからの俺が、獲りにいく先の話だ。
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一着、片瀬湊。
卒記チャンピオン。
配信のカメラが向けられて、場内スピーカーが俺の名前を三回読み上げて、バンクの上で熊井と日野と大峰と瀬川に押し潰された。重い。人生で一番いい重さだった。
流し走行の間、真壁が並んで、ぶっきらぼうに言った。
「……肩、どうだった」
「完璧だった。読めなかった」
「————よし」
それだけ言って、五組の壁は、初めて心底満足そうに笑った。檜山は「三日目の君に勝つ方法は、宿題にしておくよ」と模範的に負け、矢部は無言で手帳に何かを書き足して、ぱたんと閉じ、親指だけ立てた。精算は、プロの帳簿に持ち越しだそうだ。望むところだ。何冊でも書け。
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卒業式は、翌々日だった。
式の最後、全員でバンクに出て、男女合同の円陣を組んだ。十か月、階段さえ別だった二つの世界が、最後の一回だけ、同じ輪になる。
「せーのっ——!!」
ありったけの制帽が、伊豆の空に舞った。
落ちてきた帽子を拾って、俺は隣を見た。定規みたいな背筋が、こっちを見ていた。
「片瀬。スマホ、返ってきたでしょ」
「ああ」
「じゃ、執行」
差し出された画面に、俺は自分の番号を打ち込んだ。約束どおり、真っ先に。俺の連絡先の一件目に「風見澪(取引先)」が登録され、向こうの画面にも何か登録されたらしい。覗こうとしたら隠された。
「何て登録した」
「教えない。……あ、それと、新しい約束」澪は画面をしまって、にっと笑った。「プロの初勝利、報告はどっちが先か、競争ね」
「乗った。負けたら白米おごりだ」
「あんたの白米、単価いくらよ」
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山を下りるバスの中で、俺は最後にもう一度、画面を開いた。
【片瀬 湊 18歳】
スピード F 38
瞬発 F 27
パワー C 62
持久 101
回復 S 96
技術 D 55
持久の行に、ランクの文字がない。SでもAでもない。表示の枠から、数字がはみ出している。百一。世界でたぶん俺しか知らない、目盛りの外の景色。
去年の四月、このバスを逆向きに乗った俺のステータスを、俺は全部覚えている。F34、F22、D52、C61、B74、G8。青カバーの、最弱の候補生。
窓の外を、伊豆の山が流れていく。ブレーキのない自転車と、霧の朝と、白米と、打鐘と、二車身と、赤いカバー。全部、荷物の中だ。
さよなら、養成所。世話になった。挨拶の相手が、また一つ増えた。
次の停留所は——プロだ。
A級3班、片瀬湊。二〇XX年七月、開業。
年収二億の回収作戦、ここからが本編だ。
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【第一部『養成所編』完結】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。青カバーの最弱候補生が十か月でどこまで来たかは、数字がぜんぶ本文に書いてあるとおりです。
明日は幕間を挟んで、明後日から第二部が始まります。プロの世界で、湊が自分の風にいくらの値札を付けるのか——という話です。引き続き毎日20時15分に更新します。
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