第32話 法律を柔道語に訳せ
一月の伊豆は、朝の路面が凍る。
早朝バンクが中止になる日は、室内のローラー台で回した。適性組五人、横一列でローラーを唸らせる冬の朝は、走行音がやかましくて会話にならない。ならないのに、日野は喋る。喋りの九割は今日も余計なことだ。平和である。
平和の中に、一枚の掲示が降ってきた。
競輪選手資格検定。二月実施。
学科と、実技。これに受かって初めて、俺たちは「選手」になる資格を得る。国家資格の、本丸だ。実技は日々の走りの延長だからいい。問題は——
「片瀬ぇ……模試、赤点だった……」
学科だった。
熊井が答案を差し出してきた。自転車競技法、競輪の競技規則、番組の仕組み。暗記科目の山に、柔道十年の男が正面から埋まっていた。
「お前、三千メートルは越えたのに、紙で落ちる気か」
「紙のほうが怖えんだよ!! 紙は打ち込みで数えられねえ!!」
一理あるのが腹立たしい。よし、プロジェクト・クマイ、第二期の開始だ。今度の敵は、条文である。
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勉強合宿は、日曜の自習室で開かれた。
参加者、適性組五人。役割は自然に決まった。瀬川が要点をまとめ、日野が語呂合わせを量産し、大峰が条文を音読する。大峰の低音で読まれる自転車競技法は、なぜか経典みたいに頭に残った。声の才能だ。ノートに書いておく。
そして俺の仕事は、いつもの翻訳だった。
「熊井。規則ってのはな、全部裏返すと『やったら失格の行為リスト』なんだ」
「……ん?」
「柔道にもあるだろ。禁じ技の一覧。あれと同じ構造だ。押圧も、外帯線の追い抜き制限も、全部『反則技の名前』だと思って覚えろ。技の名前なら、お前、何百個でも入るだろ」
熊井の目の色が、変わった。
「————入るわ。技の名前なら、いくらでも入るわ!!」
入った。それからの熊井は、条文を「技」として暗記し始めた。失格事由を指を折って数え、「これは反則負け、これは指導」と柔道の階級で仕分けていく。翻訳先さえ合っていれば、この男の記憶容量は無限だ。
俺自身はといえば、学科は完全に俺の土俵だった。数字と条文と表。むしろ満点以外は負けだと思っている。走りで御影に二車身離された男が、紙でまで負けてたまるか。
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土曜の英会話で、検定の話になった。
「筆記、余裕って顔ね」
「土俵だからな。そっちは」
「余裕よ。私、内申もいいの」風見は澄まして言って、それから、指を折った。「検定に受かって、卒記を走ったら——卒業。早いわね、十か月」
「早かったな」
「約束、忘れてないでしょうね」
「事務手帳の一番上に書いてある。……なくても、忘れないけどな」
言ってから、しまった、と思った。いつもなら「商談だから」と付け足すところだ。付け損ねた。
風見は一瞬まばたきをして、それから、ふ、と笑った。
「……今日、素直じゃない」
「たまにはな」
取引先、という言葉を、今日は使わなかった。使わなくても、会話は成立した。それだけの話だ。……それだけの話、ということに、しておく。
その週の奇数日に、事件があった。廊下の公衆電話が鳴って、取り次がれた相手が、俺だったのだ。
「片瀬ぁ? 俺、御影」
「……お前、プロから養成所に電話してくる奴があるか」
「いいだろ別に。あのさ、俺、初賞金入った」
「いくらだ」
「知らん。封筒まだ開けてない」
「開けろよ!? 今すぐ開けろ! 中身を数えて記録しろ! それが社会人だ!」
「金の話になると早口になるじゃんお前」電話の向こうで、天才がけらけら笑った。「プロのバンク、いいぞ。速い奴がゴロゴロいる。……早く来い。卒記、ちゃんと獲ってからな」
五分の制限時間が切れて、電話は事務的にぶつりと切れた。賞金の額は、結局聞けずじまいだった。あの男、たぶん今も封筒を開けていない。プロ失格である。金銭教育が必要だ。
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二月。資格検定、本番。
実技は、全員が普段どおりに走って終わった。学科の合格発表の日、掲示の前で熊井は俺の袖を掴んで目を閉じていた。
「片瀬、見てくれ。俺は見れん」
「自分で見ろ。……いや、いい。読んでやる」
合格者一覧。適性組の欄。
「大峰、瀬川、日野——合格。俺、合格。……熊井、合格」
「————っしゃあああ!!」
自習室の禁じ技リストが、百キロの男を国家資格まで運んだ。聞けば学科はぎりぎり、実技はほぼ満点だったらしい。合わせて一人前。それでいい。試験ってのは、越えた高さじゃなく、越えたかどうかで数える。
これで、俺たちは全員、「受かれば選手」の位置に立った。
残る関門は、ひとつ。
三月、卒業記念レース。十か月の総決算にして、俺がプロの世界に持っていく、最初の名刺だ。
御影の予言と、須田さんの手帳と、おっちゃんの車券と、母の業務用炊飯器が、山の下で待っている。
獲りにいこう。卒記チャンピオンの席。




