第31話 早すぎる卒業式
十二月の頭、朝礼で戸倉教官が一枚の紙を読み上げた。
「発表する。——御影迅。早期卒業を認定する」
講堂が、割れた。
早期卒業。記録会でゴールデンキャップを獲り続け、独走のタイム基準を満たし、競走訓練の成績基準もクリアした者だけに開く、特例の扉。十か月の課程を待たずに山を下り、一月から、プロのバンクを走る。
該当者が出るのは、数期ぶりらしい。ざわめきの真ん中で、当の本人は、きょとんとした顔で立っていた。それから、じわじわと事態を理解して、にっと笑った。
「——一月から、プロのバンク走れんの? 俺?」
「そうだ」
「最高じゃん」
感想が、五文字だった。天才の喜び方は、いつだってシンプルで正しい。
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卒業までの二週間、朝五時のバンクは、いつも通りだった。
俺が引いて、御影がなぞる。御影が引いて、俺がなぞる。特別なことは何もしなかった。何も変えないことが、俺たちの朝の様式だった。ただ、俺は毎朝、頭の隅で数だけ数えていた。あと十二回。あと九回。あと五回。
あの背中を無料でなぞれる朝が、減っていく。
最後の朝も、いつもの朝だった。
霧。タイヤの音。無言の周回。上がり際に御影が、いつもみたいに、一言だけ言った。
「片瀬。朝メシ、何杯にすんの」
「四杯」
「じゃ、俺も四杯にするわ」
それが、最後の朝練の全部だった。それで、十分だった。
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早期卒業者の式は、講堂で簡素に行われた。
壇上の御影は、詰め襟の制服で、ちゃんと卒業生の顔をしていた。あの男が制服を着ると、なんというか、擬態に見える。中身が時速七十キロなのを、俺たちは知っている。
式のあと、正門前に、同期がぞろぞろと見送りに出た。真壁がいて、矢部がいて、檜山がいて、適性組が五人揃っていた。日野が「サインくれ! 今のうちに!」と色紙を差し出し、御影が真顔で「なんて書くの?」と聞き返していた。天才はサインを持っていなかった。
送迎の車に乗る前、御影は同期をぐるりと見回して、実にあいつらしい挨拶をした。
「じゃ、先にプロで待ってる」
以上。五秒。だが、誰も物足りなく思わなかった。あの男の言葉は、いつも過不足がない。
それから御影は、最後に俺の前に来た。
「片瀬」
「ん」
「お前が上がってくるまでに、俺、もっと強くなってるから」
「知ってる。俺もだ」
「知ってる」御影は笑って、拳を突き出した。「二車身、忘れんなよ。……あと、これは予言な。お前、卒記、獲るよ」
「根拠は」
「勘。俺の勘、当たるんだよ」
感覚の天才の勘は、たぶん、そのへんの統計より信頼区間が狭い。ありがたく受け取っておく。俺は拳を合わせて、それから、ずっと言おうと思っていたことを言った。
「御影。半年、背中、世話になった。日本一の教科書だった」
「おう」御影は照れもせずに頷いて、車のドアに手をかけて——振り返った。
「早く来いよ、片瀬。——プロの風、二人で割ろうぜ」
車が坂を下りて、見えなくなるまで、誰も動かなかった。
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翌朝、四時五十分。俺はいつも通りに目が覚めて、いつも通りに坂を下りた。
霧のバンクに、タイヤの音は、なかった。
初めてだった。この山に来てから、朝五時のバンクに俺一人というのは。一周、回ってみる。静かだ。静かすぎて、ペースが分からない。俺のイーブンは、半分くらい、あの背中を基準にできていたらしい。
二周目に入ったところで、坂の上から、足音がした。どたどたと、複数。
「……片瀬ぇー!! やっぱりここかー!!」
熊井だった。その後ろに、寝癖のままの日野と、大峰と、瀬川。
「お前が一人で回ってるかと思ったら、飯の前に来ちまったんだよ!」
「俺も! 卒記、獲るって決めたからな!」
「うす」
「……(頷き)」
適性組が、全員、朝五時に揃った。初めてのことだった。
俺は少し笑って、バンクの入り口を親指で指した。
「言っとくが、俺のペースは容赦しないぞ。ついてこられるなら、ついてこい」
「出た! 御影の台詞!」
出たんじゃない。継いだんだ。
頂点は、一足先に山を下りた。なら、あの背中が空けていった朝の枠は、俺たちで埋める。五人で回る一周目、霧の向こうで、タイヤの音が五重奏になった。悪くない音だ。前の音とは違う。違うが、悪くない。
卒業記念レースまで、あと三か月。
予言、預かったからな、御影。卒記チャンプの席、獲りに行く。




