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第一章:自力救済編 第一話「拳ならセーフ」 ――今川仮名目録第十条・戦国の自力救済――

【新シリーズ開幕!】

地下第七層の時空法制局から、法学好きの熱血調査官・神条律とベテランの陣内創、そしてAIのUnit-LEXが歴史の現場へ跳躍!

今回向かうのは大永六年(1526年)、駿河国の農村。「私闘の禁止」という法治国家の萌芽に感動する律ですが、目の前に広がっていたのは血みどろで殴り合う農民たちで……!?

「武力(刃物)を使わなきゃ拳はセーフ」という極上の屁理屈と、理想主義の法学者のバトルをお楽しみください!

地下第七層の空気は、いつも少し冷たすぎる。

神条律は、円卓の中央に置かれた黒い封筒を見つめながら、指先の震えを抑えられずにいた。封蝋に刻まれた「TLB」の文字。時空法制局からの、極秘の調査指令だ。

「また面倒くさい時代に行くんだろ」

隣で陣内創が、胃薬を奥歯で嚙み潰しながら呟いた。彼はもう十年近くこの仕事をしているのに、いまだに戦国という単語を聞くと露骨に顔をしかめる。

円卓の端に浮かぶ光の球体――Unit-LEXが、抑揚のない声で告げた。

「調査チーム、着席を推奨します。心拍数の上昇を検知しました。特に神条調査官」

律は小さく咳払いをして、封筒を開いた。

対象条文は、今川仮名目録第十条。

「理由の如何を問わず、刃物など武力を用いて私闘した者は双方同罪とする」

律の胸が高鳴った。それまで当たり前だった「やられたらやり返す」という力の論理を、大名の一存で全面禁止する――現代の警察機構、裁判制度の礎が、この一文から始まっているはずだった。

「素晴らしい……戦国大名・今川氏親が、あの時代に、こんな条文を……」

「へーへー、そりゃすごいね」

陣内は退屈そうに耳をほじった。

〔Unit-LEX〕「戦国期の法運用には著しい不合理が含まれる確率、九十九・八パーセント。神条調査官、深呼吸を推奨します」

「落ち着けるわけないでしょう!」

律の叫びは、円卓の静寂に虚しく響いた。

次の瞬間、床が淡く発光し、空間が歪んだ。

湿った土と肥やしの匂いが、いきなり鼻を刺した。大永六年、駿河国の農村――青々と稲が育つ田んぼの畦道に、三人は降り立っていた。

律は武士姿の変装の袖を振るわせ、感極まったように辺りを見渡した。

「ここが……この目の前の駿府で、法治の萌芽が――」

(ドカッ!! バキッ!! ガシッ!!)

律の熱弁を、凄まじい肉体打撃音が遮った。

「痛ぇだろこの野郎! 俺の田んぼに勝手に水を引いてんじゃねえ!」

「うるせぇ! 先週俺の家のニワトリを盗んだだろ! その賠償金代わりだ!」

泥まみれの二人の農民が、胸ぐらを掴み合い、顔面が血みどろになるまで殴り合っていた。ノーガードの殴り合い。

律は顔を蒼白にした。

「あ、あらららら! 陣内さん、現場検証です! 今川仮名目録第十条で私闘は厳重に禁止されているはずなのに、なぜ彼らはあんな血みどろの暴力を……!」

「おいおい先生、落ち着けって。よく見てみろよ」

陣内が顎でしゃくった先――二人の腰には、作業用の鎌が挿してあった。しかしどれだけ顔を腫らされても、二人は絶対にその刃物には手を伸ばさず、徹底して素手だけで殴り合っていた。

前歯を折られた男が、血の混じった唾を吐き捨ててニヤリと笑う。

「へへっ! ざまあみろ! 俺は刀も槍も使ってねえぞ! 仮名目録にはな、『武力(刃物)を使って私闘をしてはならん』って書いてあんだよ! だから拳で殴り合う分にはセーフだ!」

目を腫らした男も胸を張った。

「その通りだ! 俺たちは今川様の法律を完璧に遵守して殴り合ってんだよ! 文句あっか!」

「……は?」

律の思考がフリーズした。メガネが鼻先までズリ落ちる。

「拳なら……セーフ……? 私闘の禁止……武力の行使……え?」

〔Unit-LEX〕「当事者は、条文の『武力』という文言を『刃物による殺傷』と狭義に解釈中。法解釈の隙間を利用した屁理屈により、法規制を回避しています。神条調査官のショック度、現在八十八パーセント」

陣内が深いため息をついた。

「ほら見ろ。『私闘禁止』なんていう大層なルールを作ったところでさ、現場の奴らが考えるのは『どうやってバレずに殴り合うか』だけなんだよ。法律の文言だけ見て満足してるから、こういう穴が生まれる」

「そ……そんな……!」

律はガタガタと膝を震わせた。

「そんな屁理屈が通ってまるかーーっ! 刑法上の暴行罪に決まっているでしょうが! 立法者の意図を読みなさい、趣旨をーーっ!」

戦国の空に、理想主義の法学者の絶叫が虚しく響き渡った。

〔Unit-LEX〕「ローマ法における暴力独占の萌芽、コモンローにおける自力救済制限、唐律における官裁定の原則と、構造的な類似性が認められます」

「……今川仮名目録は、世界の法体系と構造が近い……なんて美しい連続性……」

「いや現場は拳で殴ってるだけだぞ」

陣内の一言が、律の感慨を土に叩き落とした。

三人が円卓に戻ってきたとき、律の頭の中はまだ、拳と拳がぶつかる乾いた音でいっぱいだった。彼女は震える指先を落ち着けるように深呼吸をしてから、端末を開き、報告書の作成に取りかかった。感情を書き殴りたい衝動を抑え込み、いつものように、努めて事務的な文体で。


時空法制局・調査報告書

案件番号:TLB-0010

対象条文:今川仮名目録第十条

調査地:大永六年・駿河国


【現場の事実】

拳による暴力行為が日常的に発生していることを確認した。当事者は、金銭・財産上の紛争(用水の引き込み、家禽の窃盗)を発端とし、刃物を用いない限り同条文への抵触はないと認識している。

【条文の問題点】

「武力」の文言が、刃物・槍等の殺傷具を主に指す裁定記録の蓄積により、狭義に固定化されていると推定される。立法者の意図した「暴力そのものの禁止」という広義の解釈は、現場に伝達されていない。

【世界法制史との対比】

ローマ法における暴力独占の萌芽、コモンローにおける自力救済制限、唐律における官裁定の原則と、構造的な類似性が認められる。

【現代法への接続】

現行刑法・民事訴訟法における自力救済禁止規定の、直接的な先行形態と位置づけられる。


書き終えて、律は端末から顔を上げた。

「……理屈の上では、正しいことを書いた。なのに、なんだろう、この虚しさは」

陣内が肩をすくめる。

「書類の上じゃ『問題点』で済むけどな。現場じゃ、あれは日常だ。誰も問題だなんて思っちゃいない」

〔Unit-LEX〕「報告書は受理されました。次回調査案件の選定に移行します」

律は端末の画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。



〔Unit-LEX〕「本条文との関連性が検出された未処理案件、五件。次回調査候補として登録します」


関連条文ログ

・御成敗式目 第三条(喧嘩両成敗の原型)

・刀狩令(天正十六年)

・公事方御定書(江戸幕府の裁定基準)

・唐律・闘訟律

・現行刑法・自力救済禁止の判例


ご拝読ありがとうございました!

今川氏親が定めた「私闘の禁止」ですが、現場の農民たちは「刃物を使わなきゃ私闘じゃない」と完璧な屁理屈で回避していました。文字通りの文言解釈と立法趣旨のギャップは、現代の法解釈でも永遠のテーマですね。

頭を抱える律ですが、次回は武家法の元祖「御成敗式目」の調査へと向かいます!

面白いと思っていただけましたら、ぜひブックマーク&評価(★)をよろしくお願いします!


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