第4章-1 五月十五日(事件の三日後) SIDE B:行かなかった場合
土日の休みが明け、いつも通り会社に出社し席に着いた。ブルーマンデーという訳ではないが、足取りは重かった。というのも和可菜とのデートを兼ねた打ち合わせが終わり別れた後、拓雄は気が気でなかったからだ。
懸案の結婚式の件は、日取り以外の大まかな道筋が見えて来た。けれど例のDMの件が片付いていない。
あれから和可菜は何も言ってこないし新たなDMもこなかったので、秘密をばらすとの書き込みが単なる脅しだった可能性はある。
それに和可菜の口振りだと、彼女の周辺に送り主だろう人物がおり、それが誰かの見当もおおよそついているようだった。DMの文言を見た上でそれ程慌てていなかった様子から、そう心配しなくてもいいのかもしれない。
もしかすると心当たりの人物と既に接触し、何らかの話し合いがされたとも考えられる。それで解決したのならいい。
だが公になると困る秘密とは何かは気になった。また半年以上かけてしつこく拓雄に纏わりつくほどの執念を持った人物とは、一体どんな奴なのか。結局何が目的だったのかも正直知りたいところだ。
彼女の過去を全て暴きたいのでは決してない。しかし今後の結婚において支障をきたす恐れがあるなら、懸念材料は排除すべきだろう。女友達だったなら、式に呼ぶリストから外さなければならない。
とはいえなるべく大事にはしたくなかった。だから彼女に深く追及できないでいたのだ。こんなことで二人の関係がギクシャクし壊れては元も子もない。
けれど結婚生活は今後ずっと長く続く。それを脅かす要因は出来るだけ取り除いておかなければ、後で悔やんだって遅いのだ。
こうした堂々巡りの思考が頭からずっと離れずにいた為、気分が優れないのもしょうがない。とはいえ仕事を疎かには出来ないので、パソコン画面を開いて大きく息を吐き、会社モードに切り替えようとした。
そんな時、拓雄は声をかけられた。
「おい、ちょっといいか」
隣の課の染岡が小走りでこちらに近づいてくる。
先程までいなかったはずだから、今出社したばかりなのだろう。しかも鞄を持ったままだ。自分の課に寄らず、直接拓雄の席へと来たらしい。
慌てた様子の彼に、首を傾げながら言った。
「どうしましたか。何かありましたか」
始業時間の九時まであと五十分ほどある為、席についている社員はまだ少ない。法人課だと拓雄が一番早く、次に出社してくる課長はもう少し後だ。よって課内には拓雄一人だった。それでも同じフロアにある他の課の社員が数人いる。
そんな彼らに聞かれたくないらしく、染岡は当たりを見渡し小声で話し出した。
「何かあったどころじゃない。昨日俺のところに刑事が来たよ」
思ってもいなかった言葉を耳にして目を丸くしたが、ミステリーマニアの拓雄としては聞き逃せない話題だ。その為反射的に尋ねた。
「刑事、ですか。制服警官じゃなくて、ですか」
後者なら、巡回などで戸別訪問することもある為に珍しくはない。しかしそうではないようだ。となれば何らかの事件が起こり、周辺の聞き込みをしている可能性が高い。
「スーツを着た刑事だよ。こんなこと初めてでさ。しかも日曜日、わざわざ俺の自宅を訪ねてきたから驚いた」
「ご自宅に、ですか。どういう用件で来たんですか。何かの事件ですよね」
「金曜の夜遅く、ここから近いB川を越えた辺りにあるビルの階段の踊り場で、頭から血を流し倒れている若い女性が発見された件だ。不自然な通報から、どうやら誰かに突き落とされた疑いがあるらしい」
拓雄は首を捻った。一応自宅で食事を作っている間や食べている時は、テレビを点けてニュースを観る習慣があった。けれどそんな事件を聞いた記憶はない。
新聞は電子版だ。ただ通勤など電車に乗っている際は文庫本を読んでいる為、ネットニュースを含めたサイトは時間がある時などにまとめて見る場合が多い。よってそれ程頻繁には閲覧していなかった。
ネットでは全国を含め、日々多くの事件や事故、スキャンダルなどで溢れている。よって相当大きなものでない限りどんどんと流れていき、目に留まらない案件はかなりある。地元で起こった事件などは最たるものだ。
拓雄の反応が悪かったからだろう。彼は焦れたように言った。
「何だ、知らないのか。そういう事件があったんだよ」
「その女性は亡くなったんですか」
「いや、通報が早かったおかげで、なんとか一命を取り留めたらしい。だけどまだ意識不明の重体で、予断を許さない状況みたいだ」
「なるほど。その件について話を聞きに、染岡さんのところへ刑事が訪ねてきたんですか」
「そう。しかも被害者の女性が、金曜日の夜、会議の後で話したあの代理店の娘だったんだ」
「えっ、同性愛者の人ですよね。でもどうして染岡さんのところに刑事が。確かあの時、引き籠っている人で面識ないと言っていませんでしたっけ」
「そうさ。関係悪化のきっかけになった娘になんて、俺が会えるはずもない。会社の仕事にも関わっていないんだから」
「だったら、どうしてでしょう。刑事は何を聞きに来たんですか」
「それがさ。財布の中の現金やスマホとかが全く手付かずだったから、怨恨の線で捜査しているらしく、何かトラブルがなかったかを刑事が父親などに聞いて回ったようだ。それでうちの会社と揉めている件を耳にしたんだろう。だから課長のところにも来たんだってさ」
「それは無理筋ですね。関係が悪化しているのは確かでしょうけど、娘さんとは直接関係ないし、そんな真似をしてうちの会社にどんな得があるって言うんですか」
「そうだろ。だけど刑事はそんなこと、聞いてくれやしない。あらゆる可能性を排除せず、皆さんにお尋ねしていることですからって、アリバイまで聞かれたんだぜ」
ドラマや小説でも事件が起きれば、警察ならそうするとよく知っていた為、内心ではそうだろうと思っていたが、口では全く逆の同情の言葉をかけた。
「それは酷いですね。でも刑事はどうやって染岡さんの住所を知ったんでしょう。相当仲が良い取引先の代理店でも、そこまでは教えていませんよね」
「当たり前さ。ただ杉本課長の携帯番号は知っていたから、そっちにかけたらしい。会社貸与のやつじゃなく個人持ちの番号を、課長や遠藤支店長は教えていたようだ。かかってきたことはこれまで一度もないそうだけど」
なるほど。それなら理解できる。土日など会社が休みの時は、仕事先との連絡が取れるようだと時間外労働に当たる為、基本的には禁じられている。
ただ上位職になればなるほど、型通りの関係では他社との差別化が図れない、または競争に負けるとの考えから、もし何かあった場合はと教えるケースがあった。
とはいえ担当者が教えれば、それこそ小間使いのような扱いを受けてしまう恐れがある。よって、相手もそれなりに遠慮するだろう肩書がなければできない手法だ。
特に今回の場合、三年前の関係悪化をきっかけに取扱高が激減しており、課長はもちろん支店長や本部長までもが何度もお詫びの為に訪れている。その際、何かあればと伝えていたのだろう。
「それで杉本課長にかかってきて、担当者にも話を聞きたいと連絡があった訳ですか」
「ああ。びっくりしたよ。あんな課長でも、休日に連絡してくることなんて今までなかったからさ。何かとんでもないトラブルが起きたと思って焦ったよ。それで電話に出たら、警察に代わるとか言われてさ。まあ、トラブルには違いなかったけど」
「まず課長に事情を聴きに行った刑事が、その後で染岡さんの自宅を訪ねて来たんですね」
拓雄の問いに、彼は再び頷いた。
「そう。幸いと言っていいのか、あの日はあの後、九時半頃まで仕事をしていたんだよ。課長も一緒でさ。会社を出たのが十時を過ぎていたから、アリバイは問題なかったらしい。一応は今日会社に刑事が来て、IDカードの出退勤情報を確認するようだけど」
ビルを出入りする際は、セキュリティ通路を抜ける必要があった。ガードを開ける為に社員証をかざすのだが、そのデータが出入社情報として人事に送られ、出退勤が管理される。よって警察がそれらを確認すれば、杉本課長や染岡のアリバイの裏付けが取れるからだ。
「その事件って、何時頃起きたんですか」
「金曜の夜十時頃だと聞いたけど。現場はここから歩いて十分くらいの所だよ」
そう聞いて何かが引っ掛かった。その為彼に尋ねた。
「ちなみに、その事件現場ってどこですか」
「A橋からB川沿いに北へ少し上がったところだって。橋を渡った向こう側のビルの外階段で突き落とされたみたいだ。そういえば、課長と会社を出た時に救急車のサイレンが結構近くで聞こえていたから、今思えばあれがそうだったのかもしれない」
ドキリとした。A橋辺りなら、拓雄がDMで呼び出された場所とほぼ同じだ。けれど確か川向こうではなくこちら側だった。そこで確認しようと彼に聞いて見た。
「染岡さんの所へ話を聞きに来た刑事から、名刺は貰いましたか」
「貰った。俺も名刺を渡したよ。自宅で名刺交換、しかも刑事とするなんて思わなかったな。来たのが昨日の夕方でさ。当然妻も子供達も家にいたから、ちょっとした騒ぎだったよ」
「所属はどこだと書いていましたか。例えば警視庁の城東署だとか本所署だとか」
「何でそんなことを聞くんだよ」
首を傾げた彼に、拓雄は答えた。
「いえ、それこそ滅多にない経験でしょう。興味あるじゃないですか。例えばそれが大きな事件だったら、今言った所轄じゃなく警視庁の刑事課が担当すると思いますよ。ほら、ドラマでもあるでしょう。警視庁捜査一課の刑事と所轄署刑事がペアを組むパターンが」
「なるほど。そういえば一人は警視庁捜査一課の人だったと思う。警部補とも言っていたな」
「それですよ。所轄だけじゃなく、捜査一課の担当なんですね。でも基本は二人組らしいですけど、もう一人いませんでしたか」
「そうそう、少し若い刑事にも名刺を貰った。確か城東署の巡査部長だと言っていたな」
やはりそうか。城東署の管轄なら、現場は川向こうの江東区で間違いない。つまり指示された墨田区の場所は確かに近いが少し離れている。時間が十時頃というのも単なる偶然だろう。
救急車や警察が駆け付ける事件が起こったなら、相当現場は騒がしかったに違いない。
そう考えた時に閃く。もしかするとDMの送り主は、巻き込まれないようその場を去ったのではないか。ならば拓雄が呼び出しに応じず来なかったことを、知らなかった可能性もある。それで何も起きずにいたのかもしれない。
いや、もしそうなら自分が約束をすっぽかしたのだから、日を改めて新たな指示を送るはずだ。何せ半年以上かけ、拓雄にフォローされるよう工作したほど執拗な相手なのだから。その矛盾をどう解釈していいのか、さらに混乱した。
拓雄が黙ってしまったからだろう。染岡が怪訝そうに聞いてきた。
「おい、どうした。何か、事件に心当たりでもあるのか」
慌てて首を振った。
「ありませんよ。事件があった時間は、とっくに帰宅していましたから。食事を終えて風呂に入った後ですね。少しゆっくりしてから、彼女にメールを送っていた頃だと思います」
「なるほど。そういえば結婚式をいつ挙げるか、まだ決まっていなかったよな」
「なんとか式場は決めましたよ。ただ予約やいつにするかはまだですけど」
「そうか。いや、それでさ。刑事に聞いて知ったけど、谷内田社長の娘さんは単なる引き籠りじゃなかったよ」
どうやら彼が本当に話したかったのは、刑事から事情聴取を受けたことではなくこのことだったらしい。拓雄の式の話など軽く受け流し、怒涛のように語り始めた。
話によると、今回被害者となった歩という社長の娘は、WEB小説を主にした作家だという。在宅での仕事をしていた為、同性愛者という性的指向もあって周囲から引き籠りと噂され、誤解が生じたようだ。
拓雄は全く知らない著者名だったが紙の出版物もあるそうで、それなりに稼いでいる人気作家らしい。
「そうだったんですか。それにしても災難でしたね。確個たるアリバイがあったのは不幸中の幸いですよ。もし無かったら、代理店との関係修復どころじゃなかったでしょう」
「そうなんだ。本当に助かったよ」
そう話している内に、社員が周囲にポツポツ現れ始めた。課長の連城も席について、時折こちらをチラチラ見ながら怪訝な表情を見せていた。
その為染岡は居心地が悪くなったのか、または誰かに聞いて欲しかった話を一通り終えたからだろう。
「邪魔したな。金曜に話したばかりだったから、一応耳に入れておこうと思ってさ」
そう言って離れた。別に聞かなくてもいい話だが、拓雄は取り敢えず軽く頭を下げた。
「有難う御座います。お疲れ様でした」
彼は軽く頷き課へ戻った。その後ろ姿を見送りふっと溜息を吐き、パソコン画面に視線を移す。朝早めの出社はいつもの習慣で急ぎの仕事はない。けれどルーティンを邪魔されたのは確かだ。その為通常通りの作業に戻り、今日を含め今週訪問する予定などをスケジュール表とTODOリストでチエックしていく。
そこで連城に声をかけられた。
「綿貫さん、ちょっといいかな」
「はい」
席を立ち課長の机に近づくと彼は座ったまま顔だけをこちらに向け、小声で尋ねてきた。
「一課と何か問題があるのか。朝から何やら深刻そうな話をしていたようだけど」
拓雄は慌てて首を振った。
「問題はありません。別件です。法人課には全く関係ないので」
時々代理店同士で契約を獲った、盗られたというトラブルがある。それを心配したようだ。
「そうか。それならいいけど、一課で何かあったのか。いや、話し難い話なら別にいいが」
隠す必要も無いと思い、金曜日に染岡と話をした経緯や今日耳にした件を簡単に説明すると、連城は目を丸くした。
「警察の事情聴取を受けたのか。杉本課長も彼も災難だったな」
「はい。アリバイは直ぐ確認されるでしょうし、取引も面識もない法人課に飛び火することは無いと思います。ただ支店長や支店長席は、何らかの対応を迫られるでしょうけど」
「そうだな。しかしあの程度の揉め事で、うちの社員が疑われるのもどうなんだろう」
「それ程深い意味は無いと思います。誰かに突き落とされたようなので、被害者の周辺で何か問題を抱えていたかを警察が確認したのでしょう。その中に一課との関係がでてきただけで。事件解決の過程では可能性が薄くても一つずつ潰す必要があるから、止むを得ないでしょうが」
「だけど休みの日に、警察から聴取を受けたんだろう。そんな人騒がせな話ってないよな。迷惑をかけて申し訳ないと思ってくれて、関係修復のきっかけになればいいけど」
「どうでしょう。なかなか根深い感情的な問題みたいですからね。それだけで数字を戻そうとはならないと思いますが」
「それはそうか。まあ支店長も金曜の会議では口煩く言っていたけど、実際はあと一年我慢するしかないって、観念しているようだからいいんじゃないかな」
「やっぱりそうなんですか」
「それはそうだろう。本部長が何度か頭を下げても駄目だったんだから」
「そうですね。まあ法人課としては他山の石とするしかないですけど」
「そうだな。いや悪かった。仕事に戻ってくれ」
そろそろ始業時間だ。課の社員は全員席についていたからだろう。
「分かりました」
頭を下げ席に戻った。法人課には全く関係ない。そう連城に告げたことで、それが事実だと拓雄は思い込んでしまった。その為、事件現場が待ち合わせ場所に近かったことすら、頭の片隅に追いやっていた。
とはいえそれが後に誤りだったと気付いた時には、どうしようもなかったのだが。




