エピローグ-3 SIDE B-②:行かなかった場合
阿川から会議室で待つよう告げられた拓雄だったが、その時間はとてつもなく長く感じた。和可菜もまだ解放されていないのだろう。一人でポツンと取り残され、ただただ犯人が和可菜で無い事だけを切望した。
一時間以上は待っただろう。スマホを取り出し何度目かに確認した時、ドアがノックされ扉が開いた。
現れたのは阿川でなく、見知らぬ刑事らしき男性だった。だがその後ろから入って来たのが和可菜だった為、拓雄は急いで立ち上がり彼女に駆け寄った。
「大丈夫だったか」
身柄が解放されたなら犯人でない証拠だ。その為喜んだが、彼女は浮かない顔で言った。
「心配をかけて御免なさい」
「いいんだ。歩さんの意識が戻ったようだから、これで犯人も捕まる」
「そ、そうね」
その反応に疑問を持ったが、拓雄は一緒に入って来た男性に尋ねた。
「もう私達は帰っていいですよね。誰が犯人か、分かったのでしょう」
彼は頷いた。
「はい。これから詳しい聴取がされるでしょうが、被害者本人が証言されていますからね。ただ後日またお話をお伺いすることもあるかもしれません。特に後田さんからは、中東由香里から受けた傷害の件もありますので、その時はご協力頂けますか」
「わ、分かりました」
拓雄は一刻も早くこんな場所から立ち去りたいと思い、頷いた彼女の肩を抱いて逃げるようにその場を離れ建物から出た。
そこから最寄りの地下鉄へ足を向けたが、途中で一旦立ち止まった。
「そう言えば、朝食を食べ損なったな。和可菜は何か食べたのか」
黙って首を振った為、話を続けた。
「じゃあどこか、お店に入ろう。この時間ならもうブランチだな。そこで食べながら、この後何をするか決めよう。歩さんも無事だったようだし、厄介な件からようやく解放されたんだ。中東との件はあるけど、これからは結婚式に向けての本格的な準備が進められる。喫茶店の方は電話しておいた。別に急がないしいつでもいいと言われたから、今日はやめておこう。それとも早く済ませたいと思うなら電話するけど」
「喫茶店への謝罪はしておきたい。でもその前にどこかお店に入ろう。拓雄さんには話しておかないといけない件があるから」
切羽詰まった表情を見せた彼女にたじろぐ。
「そ、そうか。わ、分かった」
そうして地下街に入り、ゆっくり話がしやすい個室があるだろう中華のお店を選んだ。
「話したいことって何かな」
拓雄がそう口にできたのは、半個室になったテーブルに案内されて海鮮あんかけ焼きそばと回鍋肉と点心の五点盛りを注文し、二人で分け合いあらかた食べ終わった後だった。
それまでは互いに何か話そうと思いながらもけん制し合い、何をどう言葉にすればいいのか決めあぐねていたのだ。
和可菜は姿勢を正し、それまで伏せがちだった顔を上げ口籠りながら言った。
「ごめん。あの日の夜のことだけど、」
「うん」
「実は私、突き落とされたかまでは分からないけど、階段から落ちたところは見ていたの」
「えっ、」
絶句した拓雄に、彼女は衝撃の事実を告げた。
「口論していた相手はね。歩のお父さんだったの」
「お父さん、ってことは谷内田社長が犯人だったのか」
これまで全く浮かばなかった名が出て、余りの驚きに声が思わず大きくなった。慌てて口を押さえ、囁くように尋ねた。
「ど、どうして谷内田社長が、そんなことを」
「歩が長い間引き籠っていたのと、中学の途中で引っ越して学校が変わったのは知っているよね。あれは彼女の発達障害が恥ずかしいと思った父親が、無理やり転校させたの。それだけじゃない。中学を卒業した後に同性愛者だと家族にカミングアウトしてから、親子関係はさらに悪化してね。特に父親は彼女の言い分を全く受け入れようとせず、周りから隠そうとし続けていたの。母親は多少庇ってくれていたらしいけど、長い間揉めていたんだよ」
「だ、だからと言って、今のこのタイミングでどうしてあんなことに」
「去年、歩のお母さんが亡くなったでしょ。あの後、身近で味方になり守ってくれる人がいなくなったからか、彼女の精神状態が不安定になってね。あとは彼女が小説家として成功し、それなりのお金を稼ぐようになっていたからだと思う。ここ二、三年で父親の会社の業績が悪化したみたいで、結構お金に困っていたみたい」
一課の前任者が社長を怒らせ、契約を切り替え始めた頃だと気付く。顧客の意思を無視し、強引に他社へ切り替えようとする姿勢が嫌悪された可能性は高い。徐々に他の代理店へ乗り換える人が増えたのだろう。
この点は減少の一途を辿り、禄に口も聞いてくれなくなった当社では知り得なかった事実である。
また切り替え先のライバル社である輝海上にとっても、目先の数字が増えて喜んでいたからか、代理店全体としての収益力が弱くなっていた点に気付かなかったのかもしれない。
だが例え知っていても、収益を上げる程の援助は出来なかっただろう。
そういえば、最近業績不振の担当者を首にしたとの話を、染岡から聞いた件を思い出す。実際は売り上げ減による人員整理だったのかもしれない。
「でもリュミエールの業績が落ちたことと、歩さんが稼いでいるのとどう関係するんだ」
「売上が減少していると言っても、他の社員の給与はある程度払わなければいけないでしょ。営業担当者は出来高制の部分もあるけど、一定の固定給はあったようなの。あと事務員は完全に固定給だから、社長は相当身銭を切っていたみたい」
「もしかして、歩さんの稼いだ金を家に入れるよう言って揉めたのか」
「そうみたい。でも彼女は絶対嫌だと断ったそうなの」
これまでは実家に無料で住み、ただでご飯を食べていたのなら金を出せと要求されたらしい。しかしそれまでの確執が彼女を頑なにさせたようだ。そんな事を言うのなら家を出て行く、とまで言ったという。
「社長と揉めているのは分かった。でもどうしてあの日の、あの場所だったんだ」
「歩が夜遅く、こっそり出かけていく姿に気付いた父親が、後をつけたみたい」
それまで夜遅くはほとんど外出する様子の無かった彼女が夜な夜な出て行くのを見て、三年前に気付かれたように、良からぬ場所へ出入りする為だと思ったのだろう。その姿を写真に撮るなど、金を引き出す際の何らかの交渉材料を見つけようと画策した可能性が考えられる。
しかし実際は全く違う場所にいた。そこで業を煮やした父親が彼女に近づき口論となり、事件が起こってしまったようだ。
「ちょっと待ってくれ。谷内田社長がしようとしていたことは、父親としてあり得ない所業だ。でもそれを、どうして和可菜はそこまで詳しく知っているんだ」
ここまで饒舌に説明していた彼女は、急に口籠った。どうやらここからが拓雄に隠しておきたかった本当の理由に違いない。
同じく時間と場所を示された和可菜が現場に向かった結果、谷内田社長が歩と揉めている様子を目撃していただけなら、警察から事情聴取を受けた際に告げていれば済む話だ。
それをしなかった、または出来なかった事情があるのだろう。それは何か。
固唾を飲んで言葉を待っていると、ようやく彼女は告白した。
「私が慌てて駆け付け、頭から血を流している彼女を発見して救急車を呼ぼうとした時、あの人に止められたの。だけどあのままだったら彼女が死んでしまうと思って、少し離れた場所に移動してから公衆電話で口をハンカチで押さえ、わざと低い声を出して通報した」
なるほど。警察から通報者は目撃者または犯人と思われるが、性別不明だったと聞いた気がする。それが和可菜だったのだ。それでも疑問が残る。
「いくら止められたからって、何故谷内田社長を庇う必要がある」
「現場で涙ながらにあれは事故で、突き落とした訳じゃないと土下座されたから、なんとか通報だけはさせて貰った後に歩の家へ連れていかれたの。あんなことになってしまった事情を説明するからと言われ、ノコノコついて行ったのが間違いだった」
「な、何があったんだ。も、もしかして」
彼女はわっ、と涙を流し泣き崩れた。拓雄は怒りで頭に血が上った。
「暴力を振るわれたのか。裸の写真か動画を撮られたんじゃないだろうな」
否定しない様子から、それが事実だと分かった。つまりそれをネタに彼女は脅され、黙るしかなかったに違いない。結婚間近だということも恐らく知られていたと思われる。破談になりたくなければ、警察には言うなと口止めされた可能性もあった。
だが被害者の歩が目を覚まし、事実を警察に告げたのだろう。そうなればいくら和可菜が隠しても意味がない。よって取り調べでは正直に答え、それで解放されたに違いなかった。
和可菜に関する全ての謎が解明し、腑に落ち納得した拓雄は席を立ち、肩を震わせ慟哭する彼女の背中を擦りながら言った。
「辛かったな。気付いてやれなくてごめん。だけどもう心配しなくていい。動画や写真は警察が押収し、世間には出回らないはずだ。それに俺はそんな卑怯な奴のせいで和可菜との結婚を諦める気はない。予定通り、今月の二十日に籍を入れて九月までに式を挙げよう」
目を真っ赤に腫らした顔を上げた彼女は、再び大粒の涙を流しながら拓雄に抱きついた。嗚咽し激しく上下する背中を擦りながら、彼女の辛さが伝わってきた拓雄も、涙を流さずにはいられなかった。
やはり人生の伴侶は和可菜しかいない。今回の事件のせいで彼女はお腹の子を流しただけでなく、性暴力まで受けて心身共に大きな傷を負ったのだ。
もし拓雄があの現場に行っていれば、こんな事態にはならなかっただろう。あの時の選択が今の状況を引き起こしたのだから、その責任を取らなければならない。絶対に彼女を幸せにする。改めてそう心に誓った。




