第8章-2 SIDE B‐①:行かなかった場合
中東に突き飛ばされ、お腹の子を流産してしまった和可菜は、その後の体調観察の為に入院することとなった。用意された病室は個室でなく四人部屋だ。
産婦人科での入院と聞けば、基本は一人部屋だと思っていたが違うらしい。料金が安い事に加え、一人は心細いと感じるママさん達が交流を求めて選ぶケースも少なくないという。
また出産した訳ではなく、一日だけの入院なら個室の必要はないと判断されたようだ。それでも他には一人だけでカーテンの仕切りがあった為、そう気を使うほどではなかった。
だが入院に至る経緯の内容が特殊だった為、ベッドに横たわる和可菜に出来るだけ近づき、駆け付けてくれた彼女の母の圭子に対し拓雄はこれまでの経緯を小声で説明した。
いくつかの質問を挟み、話を聞き終えた彼女は大きな溜息をつきながら言った。
「疑いを晴らしたかった気持ちは分からないでもないけど、それでこんな目に遭ったなんて。歩さんが意識を取り戻せば分かる話でしょう。それまで待てば良かったのに」
「本当にすみません。私の考えが浅はかでした」
拓雄は頭を下げ再度謝ったが、和可菜が間に割って入った。
「拓雄さんは悪くない。同席すると言ったのは私からだし、相手の挑発に乗ったのがいけなかったの。それに妊娠の件を黙っていたのだってそうでしょ」
これには圭子も反論できなかったらしく、それ以上は何も言わず黙ってしまった。そこで拓雄は確認した。
「お義母さんは、和可菜から妊娠について聞いていたんですね」
少し間を置いてから彼女は口を開いた。
「和可菜も私も隠すつもりはなかったのよ。ただ色々あったから、言いそびれてしまったのは申し訳ないと思っています。もし早く拓雄さんに伝えていたら、揉めたとしてもこんなことになる前に止めてくれたでしょうし。その点については私達が悪いの。ごめんなさい」
頭を下げられ、拓雄は慌てた。
「や、止めて下さい、謝って頂きたかったのではありませんから。それにこんなことを言うのは何ですが、籍を入れて式を挙げる前にそうならないよう、あの、避妊には気を付けていたつもりでしたが、その、こうなってしまったのは男の私の責任でもある訳で。本当に申し訳ありませんでした」
「止めて、ここでそんな話をするのは。恥ずかしい。どっちが悪いって話じゃないから」
和可菜の言葉に圭子は頷いた。
「そうよ。女にだって責任はあるから」
「だから止めてって」
確かに同意の上でそのような行為をした結果であり、避妊といっても百パーセント保障される訳でもない。未成年同士ならいざ知らず二人共いい大人なのだから、ある程度のリスクがあると承知はしていた。
そこで一体何を必死に話しているのかと我に返り、拓雄は思わず吹き出してしまった。つられて和可菜と圭子もおかしくなったのだろう。声を出して笑い始めた。そうなると止まらない。遂にはお腹を抱え、涙を流すまでになった。
三人が笑い疲れ切ったところで、素に戻った圭子は再び声を潜めて言った。
「ところで、やっぱり被害届は出すつもりなの」
「私はそのつもり。ここを退院して診断書を貰ったら、その足で警察署に行く」
「明日、直ぐ診断書を出して貰えるか分からないでしょう」
圭子の言う通り、病院によっては二週間ほど必要なケースもある。
「それならそれでいいよ。別に慌てなくてもいいから」
「警察署も役所だから、受付時間があるのかな」
余程の緊急性がない限り、土日や夜間の受付はしていないかもしれない。スマホで検索をかけたが、やはり例外はあるものの基本は平日の朝九時少し前から夕方五時過ぎまで、と書かれていた。また届け出は原則本人でないといけないようだ。
拓雄がそう告げると和可菜は頷いた。
「拓雄さんは仕事が忙しいし、わざわざ休みを取る程の事でもないから私一人で行ってくる。怪我自体は問題ないし、大丈夫だから。お母さんも付き添いはいらないよ」
「分かった。今日の着替えだけ、一旦帰って用意するね。あと必要なものがあったら言って」
「健康保険証を持ってきて欲しい。机の一番上の右側の引き出しに入っているから」
そうしてしばらく雑談を交え会話をした後、圭子は病室を出ていった。拓雄は彼女を見送ってからスマホで一本連絡をし、病室に戻り椅子に腰かけ和可菜に告げた。
「お義母さんが何時頃戻ってくるか分からないから、俺も一度席を外すよ。あの喫茶店に行って、示談を済ませてくる。遅くなるようだったら、そのまま帰るかもしれない。そうしたら病院か、お母さんの携帯に連絡するよ」
「分かった。店の方は大丈夫かな」
「さっき連絡を入れてこれから伺う話をしたけど、口調からして大丈夫だと思う。どちらかと言えば、こっちは被害者だと思ってくれているみたいだった。でも物を壊して迷惑もかけたし、俺達にだって責任があるのは確かだからね」
「御免なさい。本当は当事者の私が行くべきだろうけど」
「構わないさ。その辺りの事情は俺から伝えておくし、何だったら、後日改めて二人で頭を下げに行けばいい。ただ示談するなら、早い方がいいからさ」
「お願いします。お金は私も払うから」
「そんなのはいいよ。俺だってあの場にいたし、来月の二十日には籍を入れて夫婦になるんだ。どっちが出したって同じだろう。任せてくれ」
「有難う」
夫婦という言葉に照れたのか、彼女は顔を赤らめ俯く。拓雄も恥ずかしくなり席を立った。
「お母さんが来るまで少し寝ておきなよ。疲れただろう。じゃあ、行ってくるから」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
結婚すれば出勤する度、彼女にこうして言葉をかけられ見送られるのかと想像し、はにかみながら病院を出た。
その後拓雄はタクシーに乗り、喫茶店に到着した。事前に連絡を入れていたからだろう。店長に加えオーナーさんが待っていた。
話し合いは想像していたより、ずっとスムーズに進んだ。和可菜が妊娠しており、テーブルにお腹を打って流産したと聞いたからかもしれない。
二人は婚約しているが、拓雄の職場の都合で籍を入れ損ない、結婚式の日取りも決められない事情を説明した為、余計に同情された。
「転勤族は大変ですよね。実は父が銀行員で、私も何度か引っ越しと転校の経験があるので、よく分かります。だから自分は将来、絶対そんな業種につきたくないと思っていましたから」
六十代のオーナーが共感してくれたおかげで、念の為にと言いながらも簡単な署名を取り交わし、一万円という気持ち程度の弁償代と慰謝料を払って無事示談は済んだ。
割れたコップやテーブルなどの実質的な損害は、大きく見積もってもせいぜい二、三万円だという。あの騒ぎで警察が来て客足が遠のいたと言っても、元々日曜日のあの時間帯はそれほど入らないらしい。
ただ何も払わない訳にはいかないと拓雄が強く主張した為、正確に損害を確定して一万円を超えたとしても、残りは中東に請求すると彼らは言ってくれた。よって後々揉めないようにと、拓雄達の分は支払い済みで今後請求など一切しないという示談書を取り交わしたのである。
保険会社では、自動車事故における示談書などを目にする機会が多い為、比較的馴染みがある。しかし簡易なものとはいえ書面を用意する時間やその前の説明、またその後の雑談で時間がかかってしまい、気付けば辺りは暗くなっていた。
よって拓雄が圭子に連絡すると病室にまだいた為、伝言をお願いした。
「示談は無事済みましたし、今日はもう遅いので帰ります。和可菜にも伝えて下さい。あと、明日退院したらスマホに連絡するようにと」
「分かった。明日は私も仕事を休みにしたから、一緒に退院手続きをする予定なの」
「そうですか。それなら安心です」
「そうそう。病院の先生に確認したら、診断書は退院時に渡せるよう準備してくれるって。だからその足で、一緒に警察へ被害届を出してくるわ」
「それは良かったです。では宜しくお願いします」
そう言って電話を切った拓雄は安堵のため息をついた。また病院へ取りに来るのも二度手間だし、届け出がずるずる遅れずに済むならそれに越したことはない。あとは警察が動いてくれるし、喫茶店は来週の土日にでも二人で顔を出して頭を下げておけば十分だろう。
面倒な用件はさっさと済ませておけば後が楽になる。そう思いながら地下鉄の駅へと向かい、帰宅の途に就く途中でふと思い出した。
今度の金曜日、六月二日の夕方五時には七月一日付の異動発表がある予定だ。その結果によっては、次の土日に何をするべきかが決まる。
もし異動となれば、二人で引っ越しの準備で忙しくなるだろう。予定通り二十日の彼女の誕生日に籍も入れなければならない。式の日取りやどこで挙げるかは、新たな赴任地について落ち着いてからでいいだろう。
歩の事件についてもこの地を離れれば、警察の事情聴取に煩わされなくなるはずだ。よって和可菜が犯人でない限りどうでもよくなる。
もちろんそう信じているし、信じるしかない。中東との問題も、時が経てば解決するだろう。
問題は異動発表で名前が無かった時だ。そうなると籍は予定通り入れるにしても、歩が目を覚まさない限り、嫌でも事件には関わり続けてしまうに違いない。
また次の異動は早くて十月一日までない為、式を挙げる日取りもその間に決める必要があった。
式場をどこにするかも悩ましいが、その場所がいつだと空いているかにもよる。九月までに挙げられるようなら、和可菜や圭子はそうしたいに違いない。
拓雄もそれでいい気がしていた。他の赴任地に行ってから東京に戻り打ち合わせをする手間を考えれば、話は早くて済む。新婚旅行のスケジュールが厳しくても、上にいい顔をされなくたって強引に決めてしまえば表立った反対は出来ないはずだ。それで後の査定が多少悪くなったなら、新天地で取り戻せばいい。
一旦はそう考えたが、そう割り切れる境地になれるだろうか、と少し不安になる。改札を通りホームで待っていた電車に乗り込んだ拓雄は頭を悩まし始めた。
これでいいのか。和可菜との結婚で本当に幸せになれるのか。一度はこの道しかないと考えていた。だが判断は間違っていないか。何度も迷い込んだ思考の深い森にまたも足を踏み入れていた。