51. 微かな心境の変化
泣き疲れて眠った後、朝日に照らされて目が覚めたアルシェスタは、ゆっくりと体を起こした。目の周りが微かに痛む。ベッドから足を下して、備え付けられていたドレッサーで自分の顔を見た。
「……ひっどい顔」
けれど、心は少しだけ軽くなっていた。イルヴァンがアルシェスタの悲しみをすべて受け止めてくれたからだろうか。まだ、心の中に棘が食い込んでいて、ほんの少し心を揺らすだけでちくちくと痛むような感覚はあるが、何とか貴族としての体裁を保てる程度には落ち着いたようだ。
自分にはどうしようもなかった悪意がこれほどつらいとは思わなかった。けれど、これは子どもだからこそ、この程度で済んだとも言える。これから先、腹の底に色々なものを抱えている大人と渡り合っていくとなると、この程度で立ち止まってはいられない。
アルシェスタは侍女を呼んで、昨日の話し合いがどうなったかを尋ねた。すると、侍女はグレインを呼んできて、そして話し合いの概要と加害者の処分を簡単にだが教えてもらうことができた。
ローマーナ伯爵家とそれに連なる家々は、今回事件を起こした子爵家二家の当主が代替わりするまで、例外なく「キングレー伯爵領への立ち入りを禁ず」という処置となった。子爵家の当主は、ローマーナ女伯爵の宣言によって、3年以内に代替わりをすることになったそうだ。
また、イルヴァンが相手方の言い分に呆れたのをきっかけに、キングレー伯爵家への侮辱罪を認めない場合、ローマーナ伯爵家とその傍系との交流は切ることになったとのこと。
アルシェスタに手をあげた平民は貴族籍詐称と暴行犯として王都の騎士団に身柄を渡され、護送された。教唆を行なった子爵令嬢二名は、牢に繋がれても喚き続けていたが、女伯爵が徹底的に打ちのめし、身柄を預かったのち、領地を出たそうだ。
今後あの二人がアルシェスタやイルヴァンに何かしようものなら、子爵家二家は爵位を主家に返還しなければならないらしい。
「随分と重い処分だね」
「今回の場合は、向こうが傷口を広げすぎたね。最初は、恐らく慰謝料を払っての示談で済ませるつもりだったんだと思う。少なくとも、殿下や女伯爵は。イルはたいそうお怒りだったけどね」
「そこから、よりにもよって子爵家が次期侯爵家を賤しい商人呼ばわり……しかも王家の御前で……そりゃ、殿下は見逃すわけにはいかないよね。ここで見逃しちゃったら、今後も罷り通っちゃうし」
大事にする気はなかった。ただ、カッとなって手をあげてしまったことを認め、潔く謝罪すればそれで終わりのはずの話し合いだった。
しかし加害者側は自分が悪くないと主張し、筋の通らない言い分を主張し続け、序列を守れない不快さに顔を顰められた結果、逆上して侮辱。
そこから芋づる式に、教育の怠慢を指摘され、平民の貴族籍詐称まで問いただされ、加害者たちには当初の想定よりも遥かに重い処分が課せられるようになった。
「レイ兄もごめんね。テロの後処理とかで忙しいのに、仕事増やしちゃって」
「それが私たちの仕事だからね。シェスは気にする必要はないさ。シェスが不審者を見つけてくれたから、私たちの仕事も随分と楽になったからね。……さて、私は父上に呼び出されているのでそろそろ行くよ。シェスが目を覚ましたことは、イルにも伝えてあるから、そろそろ……お、来たかな」
グレインが部屋の扉へと目を向けると、ノックされたのち、開かれた。イルヴァンは少し急ぎ足で部屋に飛び込んでくると、アルシェスタの顔を見つめて、ほっとしたように息を吐いた。
なんだ、その顔は。そんな、不審者に襲われたわけでもあるまいし。
そんなことを思っていると、グレインが立ち上がり、イルヴァンの方へと歩いて行って、アルシェスタを頼むと言い残して、部屋を出て行った。
イルヴァンはアルシェスタの傍へと座ると、柔らかく笑った。
「おはよう。よく眠れたか?」
「おはよう。それはもう、泥のように。人間の睡眠って、気力を絞り尽くして半ば気絶するくらいの方がよく眠れるよね」
アルシェスタは頬のガーゼをそっと外す。そして、イルヴァンを見上げる。
「どう? もう目立たないかな」
「少し腫れてるようにも見えるけど、だいぶ目立たなくなったな」
「そう。明日までに引けばいいけど。……領地での最後のパーティーあるし」
「出られるのか?」
「出なきゃダメだよ。ホストなんだから」
明日、アルシェスタがこの海辺の領地の中でも特に際立って力を入れている企画である、豪華客船ナンビュス・エヴァンタイユ号での船上パーティーがある。これが終われば、後は翌日、王都へと帰ってこの旅は終わりになる。
これはアルシェスタの掲げる「夜会を娯楽と密接に」というテーマに沿った事業の一つで、特別な場所での夜会を催すことで、普段のパーティーとは一味違う雰囲気を味わってもらいたくて計画したものだ。その後も、大きな夜会を催したり、会場を貸し出したりで運用をする予定である。
「やっと終わるな……」
「本当にね。最初、話を貰った時はチャンスだって思ったけど、ここまで問題を起こされるだなんて、誰が予想できただろうか」
「ユーウェル殿下が、後日王家からも正式に慰労をしたいって」
「殿下もなぁ……本当にお疲れ様って感じ。まぁ、王立学院の運営は王家がやってるわけだし、そうなっちゃうのか」
イルヴァンが思い出したように、声を上げる。
「そういえば、王都に帰ったら、補講の手配を始めるらしい」
「補講?」
「他領での振る舞いすら身についてない子女たちを王立学院から卒業させられないってさ。だから、殿下のブラックリストに入った学生たちにみっちりと補講するらしい。それに出ないと卒業させないんだって」
「そこまでのひどさだったか……」
とはいえ、恐らくはこの学院旅行に着いて来た大人のほとんどがそれを感じたことだろう。彼らから補講を依頼されたのかもしれない。
補講には大いに賛成だ。このままだと、アルシェスタの代になる頃には社交界が限りなく混沌としてしまうし、早めに矯正しておかなければ次代にも似たようなモンスターが量産されてしまうかもしれない。
「教育って大事だな」
「……そうだね。何かあった?」
「実は、おばさんがさ」
母の存在を口にすると、アルシェスタは少しだけ表情が強張る。いつもならば、ここで話を止めてしまうところだ。けれど今回は、ここであきらめてはいけないと思っていた。イルヴァンは一度息を深く吸い込んだ後、ゆっくりと話し合いの場であったことをアルシェスタに伝えた。
アルシェスタは、ばつが悪そうに瞳を逸らしてはいたが、癇癪を起こしたりはしなかった。
イルヴァンが話を終えると、アルシェスタは俯いていた。
「……本当は、薄々理解してた」
「そっか」
「王立学院に入って、生徒会に入って、目立つようになって。よく分からない悪意を向けて来る人間が増えてきたときに、ね。そいつらの親を軽く調べて見たら、どれも同じような結果だったんだ」
「子どもを、何も考えずに甘やかしていた?」
イルヴァンの問いかけに、アルシェスタは小さく頷いた。窓の外、美しい海に目をやりながら、アルシェスタは呟いた。
「僕って自己主張が強い方じゃん」
「そうだな」
「で、我儘じゃん」
「度を越したことはないと思うけど、まぁごねるときはごねるよな」
「そして金がある」
「国一番の大富豪だからな」
イルヴァンは無理に否定したりはしない。肯定する部分はちゃんと肯定したうえで受け入れるのだ。
アルシェスタが今挙げた特徴は、問題児たちにも当てはまるものだ。
「でも、僕は教育を受けたからそれを隠す方法を知ってる。あの人たちは……知らなかったんだろうね。外でそんな振る舞いをしたら、何かしらの摩擦を生むって」
「厳しい教育を受けてないから、か。俺も、父親からはそれなりにしごかれたからな。兄も、弟も。小さい頃は結構厳しく接されたけど、成人して自分の意思を伝えてみたら、普通に話を聞いて貰えて驚いた覚えがある」
「うちのはちょっと特殊だったっぽいけど、程度の違いはあれ大抵の貴族家庭では厳しい教育が施されてる。そういう話、王都に出て初めて知ったんだ」
世界の狭さを言い訳にするわけではない。ただ、子どもの目からは見えなかったものであったのは確かだ。大人の世界に半分、足を突っ込んで、アルシェスタは自分の境遇と、それに対する憤りに、微かな疑問を持った。
けれどそれは、認めたくなかったことでもあった。アルシェスタが自立を志した根源が、揺るがされると思ったからだ。
「――それでも、僕だって馬鹿じゃない。僕が今、社交界で立ち回れているのは、母さんの厳しい教育があったからだって分かってる。あんなふうに、甘やかされるだけで育たなくて良かったって思ってることも認める」
「……ああ」
「全部認めたわけじゃないよ。でも、貴族社会では正しい部分もあるって分かっただけ。……それだけだから」
しばらく、沈黙の時間が続いた。イルヴァンは頭を回す。これをなんとか、リナーシェに伝えてあげたいと思うのだが、あまり下手に動くとアルシェスタが怒ってしまうかもしれない。アルシェスタの機嫌のコントロールは極めて難しい。イルヴァンが苦心している部分でもあり、それなりに楽しんでいる部分でもある。
リナーシェは、アルシェスタに嫌われていることをずっと気にしている。そしてそれが、貴族の間で噂になることを恐れている。そうなってしまえば、修復の機会もないと思っているのかもしれない。そしてそれが、アルシェスタの瑕疵になることも気にしている。
何とか、公の場でそれなりに仲睦まじい振りをできないか、と。それをうまく伝える方法を探していると、アルシェスタが口を開いた。
「ねぇ、イル兄。ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「あ、ああ。いいけど、どこに行くんだ?」
「本邸」
イルヴァンは首を傾げたが、アルシェスタに引っ張られるまま、魔導機関車に乗って、キングレー伯爵家本邸へと同行することにした。
本邸に戻ると、アルシェスタは自室へと向かった。途中、執事を捉まえると「針子の予定を把握している侍女を呼んでおいて」と指示して、自室に入ると、クローゼットを開けた。
「シェス……このドレスって」
「まぁ……。その、面倒くさそうなことは先に片付けておく主義なんだ」
ちょうど、侍女が到着したのを見たアルシェスタは、クローゼットからドレスを取り出して、それを侍女に手渡した。
「お願いがあるんだけど」
「……は、はい。何なりと」
侍女は、少しだけ慄いている。アルシェスタが渡してきたドレスを見て、幼いアルシェスタの命令を思い出していたからだ。
リナーシェが選んだ少女趣味の服は、ついぞ使用人室の保管庫から出ることを許されなかった。アルシェスタはあの11歳のお茶会を最後に、この手のドレスを身につけたことは一度もなかったからだ。
だから今回も、処分しておいて、と言われるのではと。
そう思っていると、アルシェスタは少しばつが悪そうに瞳を逸らしながら、口を開いた。
「明日の夜までに、そのドレスの装飾、ちょっと変えてほしいんだけど」
「……え?」
「あ、無理? 無理ならいいよ。急な話だしね」
「い、いえ。針子たちの予定は空いているので、大幅な変更でなければ問題ないと思いますが……」
予想外の言葉に、侍女はひっくり返ったような声を出した。アルシェスタは机の中から白紙を取り出すと、そこにがりがりと変更してほしいところについて書き連ねた。それを侍女へと押し付けると、ふとクローゼットの隅に、それを見つけた。
「これ……」
「あ、それ、小さい頃のシェスがよく抱えてたウサギのぬいぐるみじゃないか?」
「よく覚えてんね。昔はこれ抱きしめてる間だけが心が安定してたっていうか……つらいことがあったら、これを思い切り抱きしめて、行き場のない苛立ちを逃がしてたんだ」
白いウサギのぬいぐるみは、ところどころほつれてはいるが、もともと高級品だからか年季が入っていても大して傷むことなく、綺麗になっている。恐らくは、アルシェスタがこのクローゼットに仕舞った後も、使用人たちが手入れをしていたのだろう。
赤いリボンのついたワンピースを着ているウサギは、とてもかわいらしい。
アルシェスタは導かれるように、そのウサギへと手を伸ばすと、それを見つめた。
そしてしばらく考えた後で、そのウサギも、侍女へと預けた。そして渡したメモをもう一度取り返すと、それにまた新しく記載を加えて、侍女に返した。侍女は驚いていたが、一礼をすると、早々に針子のところへと向かっていった。
「何するんだ?」
「別に……ただ、わけわからんいちゃもんつける奴らに攻撃する材料をわざわざ与える必要はないかなって。歓迎会の後、微妙に噂になってるっぽいし。あと僕のことをガキみたいとか幼少年のお遊戯会かな? とか言ってきたやつに、それならそれなりの戦い方があるんだって教えてあげようと思って?」
そういえば、幼馴染は結構な負けず嫌いで、かつ根に持つ方だと思い出したイルヴァンは、しかし素直ではないアルシェスタのことを優しく見守っていた。




