三つ首の獣
ケルベロスの三つ首は、独立して別々の思考を持つという。
右、中央、左。三方向を望む六つの眼は、それぞれから迫る攻撃に対処を可能とした。
右手側から、フィンは左足に狙いを定めて接近する。罅隙紋・獅子の力を得たことで拳の強度は増し、殴打による一撃を放つことができた。
速度に乗せたフィンの拳が、身の丈を優に超すケルベロスの片足に当たる。
遠吠えのような雄叫びが、ケルベロスの口から漏れ出す。
左首がフィンの頭上から降り注いでいた。
肉を切らせて骨を断つ。足へのダメージを軽視し、確実に敵の息の根を止めんとする白刃の如き犬歯。
その意識を割かんとしたのは、左手側から攻めるセレーネの太刀筋だった。
弧を描く三日月の剣を、魔犬の強靭な筋肉繊維に沿って刈り上げる。敵の巨体から考えれば、右足への痛みなど微々たるものだが、その程度は考慮の範疇。
セレーネの真の狙いは、上昇する斬撃に伴う右首だった。
「まずは、一つ貰う!」
宙を舞うセレーネ。飛来する太刀筋が、ケルベロスの動脈を狙う。
その致命傷を避けるべく、フィンを狙っていた左首が引き戻された。
軌獣はとっさに身を仰け反らせ、後ろ足に力を込めて大地に踏ん張る。瞬間、眼前に発生する漆黒の壁に、フィンとセレーネは度肝を抜かれた。
しかし腹部を剥き出したお手のような姿勢は、一種の好機でもある。
今、ケルベロスの重心は二つの後ろ足にかかっていた。
先ほど人馬をひっくり返した要領で、フィンはセレーネに合図を送る。
「セレーネ、尻餅だ!」
「クレセントな発想だが、悪くない!」
フィンの意図に気づき、セレーネは空中を飛ぶように右後ろ足に迫った。
両サイドから、全身全霊を乗せてケルベロスに体当たりを仕掛ける。これが決まれば、間違いなく魔犬はひっくり返るだろうが――
「嘘――」
二人の息の合ったコンビネーションを、軌獣はものの見事に回避した。
犬がハードルを飛び越えるかの如く。ケルベロスの巨大な両脚がバネの役割を果たし、地上を覆い隠す影を落とした。
さらに突き出された前足二本には猛禽類のような爪。
着地の瞬間、王立広場に激震が走った。
「……凄まじい力だね、ニュー」
「ええ。これでは、もうフィン=サーニタスは……」
ダスティンとニューは、盛り上がる大地に圧巻されていた。
鋭い爪刃に地面は抉られ、亀裂を走らせながら周囲の花壇を崩壊させる。
美しき庭園の様相は、ケルベロスの衝突によって瞬時に消し飛ばされた。
そしてその衝撃の渦中にいた、フィンとセレーネは――
「た、助かった……」
「すまない、フィン……もう下ろしてくれて構わない」
抉り込まれた広場の辛うじて端。セレーネをお姫様抱っこしながら、フィンは命からがら逃げおおせていた。
セレーネを地面に立たせ、フィンはケルベルスを仰ぎ見る。
「さすがに強いな。でもここで諦めるわけにはいかない」
「フィン、このままでは埒が明かない。一か八か、アーツフリードを放ってみせる」
「え? あれって、刻印姫も使えるのか?」
「そうだ。刻印姫は自らの女王の罅隙紋を消費する。しかし罅隙紋・女王は、刻印姫の力の源でもある。これを使用すれば、数日は全ての罅隙紋が機能しなくなる」
「つまり正真正銘、一回限りの大技か。でも、それで決まらなかったら……」
「そのときはもう打つ手はない。だが、やる価値はあるはずだ」
フィンは逡巡し、ダスティンたち兄妹に目を向けた。
思えば、彼らはケルベロスとの戦闘が始まってから、一度も手出しをして来なかった。
それだけケルベロスの力を過信しているのだろうか。それとも他に大きな意味があるのか――その思考を見透かすように、ダスティンは微笑んだ。
「何度も言った通り、ボクはキミを傷つけたくない。だからボクは直接手を下さない。その免罪符として、キミたちの最後をこの目にしかと焼きつけておくよ」
「……悪趣味な男だ」
セレーネはダスティンに、嫌悪の目を向けていた。
ニューは兄を馬鹿にされたと感じ、反抗的な眼差しをセレーネに向けるが、すぐに兄に向けて囁きかける。
「兄様……身体は持つの?」
「心配いらないよ。あの二人を倒すまで、ボクが倒れるわけにはいかないからね」
ダスティンは小さく唇を噛み締めた。
その口端から、一筋の血が零れ出しているのを、ニューは見て見ぬふりをする。
兄妹が油断している合間に、セレーネは要点を伝えた。
「フィン、作戦はこの前と同じだ。君が陽動している隙に、私が決める。良いな?」
「それしか手がないのなら……いや……」
一瞬、フィンは三年前の父の背中が蘇る。
サルターレ流奥義。
父は決して誰にも伝えなかったが、フィンは紛れもなく目の前でそれを見ていた。あれを使えば、もしかしたらケルベロスを――
だが、その思考はすぐに破棄する。
奥義は使用者の命を奪う捨て身。それはセレーネの父親も行ったように、命を懸けるべき場面で行う最後の手段だ。
しかしまだこちらには、アーツフリードという人類の切り札が残っている。
フィンはそこに一縷の望みを託そうとした。
――そんな折、フィンは遠くに怒号染みた熱量を感じ取る。
「これは、何だ?」
幻聴ではない。セレーネも大気の震えとともに、それを聞き届けていた。
「兄様、あれを見て」
「なるほどね。まだルナの民にも、気骨ある者が残っていたようだ」
ダスティンとニューは、視線の先にその正体を見極める。
それはフィンたちにとって、予想だにしない増援だった。




