18
塔の中庭には、冬の名残を抱えた冷たい風が流れていた。
空へ向かって伸びる塔の壁は朝の光を受けて輝き、どこか遠い国の景色のようだった。
その下を歩くノクスの影は細く長く伸び、彼の心のように揺れていた。
夜中に警備の兵士に熱い眼差しを送られ、ノクスは今日も手を引かれた。離れた詰所まで連れてこられたが、そこに別の兵士がいた。ノクスを巡って兵士同士で揉めたために巻き込まれてこんな時間になってしまった。
朝帰りをしたとリーリエに怒られてしまう。
ふと、厳しい顔をして自分を見上げるリーリエの可愛い顔を思い口元が緩む。
初めて会った時からそうだった。リーリエはノクスを大事にしてくれる。
リーリエを思うたびに胸がざわめく。
初めて抱く、未知のざわめきだった。
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召喚される前の世界。
ノクスはいつも、昏い部屋にいた。
厚いカーテンに遮られた薄暗い光。
香の匂いが重く漂い、どこか湿った吐息が肌に落ちる。
自分の、人を惑わせるという理由の分からない特性に、皆が縋ってくるのだ。
ノクスはいつもされるがまま。
誘われ、
攫われ、
触られる。
父親の冷たい声を思い出す。
「あの路地裏にいれば守ってやる」
だから、分かるな。
それきり父親には会うことがなかった。
父親はノクスに近づかない。
しかしノクスの特性を理解し、利用し、管理していた。
そしてノクスの母親が産後の肥立ちが悪く死んでしまった事を恨み、ノクスにその罪を贖わせていた。
父が得た利益の対価にノクスがあてがわれる。
そして、父はそれ以外の何者からもノクスを守った。
身分の高い貴族たちの、薄暗い顔、縋るような声。
彼らの目はいつも冷たく虚ろなのに、触れる指先だけが生々しい熱を帯びていた。
その熱がノクスの肌を這い回るたび、心はひやりと凍った。
(我慢していれば生きられる)
いつもそうしてきた。
逃げようとは思わなかった。
父の庇護を外れれば、たちまち誰かに攫われてしまうのは火を見るより明らかだった。
ノクスを抱きしめ縋り付き、熱にうかされたように見つめる瞳を、虚ろな眼差しでその時が来るまでやり過ごす。
その時が来ると、彼らの身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
その隙に、ふらりと影の中へ逃げる。
ひとりで夜風に当たるたび、やっと自分の身体に戻れた気がした。
ノクスの中にはルールがあった。
冷えた体だけが本当の自分で、誰かの肌の熱が伝わるこの体は自分のものではない。
だって求めてくるくせに、誰も自分を見ないから。
だから自分も誰のことも見ない。
それが、ノクスが決めたノクスの世界だった。
その日々が、唐突に終わった。
ノクスの国が瞬く間に滅んだのだ。
革命軍が隣国を手引きし、首都に攻め込まれ、気づけば国王の首は掲げられていた。
そしてノクスは呆然としたまま、エルディフィアに召喚されたのだ。
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この塔では何もかもが違った。
リーリエは、ノクスが初めて普通の人のように扱い、尊重してくれた人だった。
ここでもノクスの手を引く者はいる。
けれどここでは、何度もリーリエが来てくれた。
呆れた顔で、それでも手を差し出してくれる。
その度ノクスの心は救われるのだ。
彼女はノクスの手を無理に引かず、ノクスがその手を取るのを待ってくれる。
お互いにお願いしたり謝ったり、気安い友のように接してくれる。
リーリエのいる場所だけ、空気が澄んでいた。
朝日がゆっくりと差し込み、冷たい塔の壁を温かく染めるように、リーリエはノクスをじんわりと綺麗に染め直してくれるような存在だった。
逃げようなんて、一度も思わなかった。
むしろ──
(……ずっといたい)
こんな感覚、今まで自分のどこにもなかった。
彼女に腕を掴まれても、肩が触れても、嫌じゃない。
むしろ、もっと近づいてほしいとさえ思う。
(触れたいのは……俺の方だ)
胸の奥に浮かんだその感情に、ノクスは目を見開いた。
(俺が……触れたい?)
そんな発想は、一度も持ったことがなかった。
理解した瞬間、ノクスの頬は火のように熱くなった。




