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下弦の月が夜空に浮かぶ頃。
鬱蒼とした森の中を、髪を振り乱しながら、兵士が自陣に向かって疾走していた。
敵陣からだいぶ離れた。もう急がなくていいはずなのに、心が急いて足が止まらない。
彼は懐に入れた本を、上から力強く抱えた。
革張りだった。
夜よりも深い紺色。
表紙には金の箔押しで、百合の造形が華やかに縁を彩る。
奪ったのだ。戦場で。
あの銀髪の魔女から。
「やったぞ……!」
喉が震えた。
仲間は皆死んだ。だが構わない。この本を持ち帰れば勲章どころか爵位すら夢じゃない。
兵士の軍を壊滅させた兵器。
山を削り、城壁を消し飛ばした禁忌の魔導書。
この本の力があれば自軍の勝利は間違いない。
そう、この本の―――ちから。
ふっと、ある思考がよぎる。兵士が立ち止まる。
魔が差した。
上官からの任務で盗み出したが、自分も扱えるのではないか。
ゴソゴソと懐から本を取り出し、見つめる。革の装丁が手に馴染む。
月の微かな光の中、金の箔押しが鮮やかに浮かび上がる。
早鐘のように鳴る心臓は、果たして疾走していたからだろうか。
兵士は息を整える。
少し、試すだけ。
そうだ。試してダメなら上官に渡せばいい。
中身の分からないものを上官に渡すのは良くない事だ。
これは務めだ。
言い訳を並べる兵士の顔は上気し、本を握る手には汗が滲んでいた。
彼の脳裏に銀髪の少女が開く魔導書が過ぎる。
あの、圧倒的な火力。
無慈悲な破壊。
その力の源泉が、今自分の手の中にある。
兵士の心は決まった。
「見せろ……力を……」
震える指で本を開いた。
「……は?」
兵士はページをめくる。
「な、なんだ……?」
焦りで呼吸が浅くなる。
もう一度めくる。前から。後ろから。乱暴に。紙で指が切れたが構わず、月にかざしたり、顔を近付けたりした。
その時。
最後のページに赤い文字が浮かんだ。
じわり、と。
血が滲むみたいに。
そこに書かれていたのは。
「――ぁ」
血の気が引いた。
次の瞬間。
「たすけて」
声がした。
兵士は絶叫した拍子に本を放り投げる。
「だ、誰だ!?」
誰何したが、周りに人の気配は無い。
兵士は耳を澄ました。
「たすけて」
今度ははっきり聞こえた。
少女の声。
冷たい。
静かな。
聞き覚えのある声。
「たすけて」
「やめろ!!」
思わず剣を抜く。
だが。
暗闇の中、人影はない。
「なんなんだ。なんなんだこれは!!」
兵士に応えるものはない。
ただ声だけが響く。
「たすけて!
たすけて!!
たすけて!!!」
空気が震えた。
地面が震えた。
兵士の歯が鳴る。
「たすけて!!!」
鼓膜が痛い。
「たすけて!!!!」
やめてくれ。
「たすけて!!!!!」
誰か!
「たす――」
「しぃ」
音が、止んだ。
世界が静まり返る。
兵士は凍りついた。
目の前に、彼女は立っていた。
いつの間に来たのか分からない。
足音も気配もなかった。
銀の髪。
透けるような白い肌。
薄桃色の唇の前で、人差し指を立てている。
少女だった。
足元の本を拾い、大事そうに抱えた。
「私の本、開きましたね」
青い瞳で真っ直ぐ兵士を見る。
「ぅ、あ・・・」
上手く声が出ない。
兵士の喉が上下する。
逃げなければ。
本能が叫ぶ。
だが足が動かない。
「読み合わせしましょう」
ほら、と少女は微笑み本を開く。
花が咲くみたいな、可憐な笑顔。
戦場に似合わない少女の存在。
兵士は理解した。
ああ。
これは。
「た、たすけて」
あれほど止めてくれと願った言葉が、今度は自分の口から零れた。
兵士は泣いた。




