第32話 夫妻 1450年代初頭 安房
その金碗大輔が里見家に転がり込んだ理由と言って、神余家中を追われたからにほかならぬ。
追い出したのは誰かと言って、およそ想像がつくのも武家の習いではある。
白浜を離れること一里、山から移った館の庭先には今日も大音が響き渡っていた。
「違う違うとは思ってたけんが、権大納言のお姫さまだってんだからおったまげたよお」
「何だお、そのごんだいなごんってのは」
知ったことではないのである、たえにおいて玉梓とは神仏であれば。
「おめぇは何も知らねえ馬鹿だな。どこの村にも権兵衛だ権左衛門だ、いくらでもおるっぺが。そったら『ごん』の大親玉が権大納言さまだわで」
微妙に、というか明らかに間違っている。
さすがに訂正を入れるべきかと立ち上がった義兄の耳に再びがなり声が飛んできた。
「つまりは日ノ本で一等偉ぇ『ごん』だっぺ」
なぜかたどりついた正解に肩震わせる玉梓は笑っていたものか、泣いていたものか、いずれにせよ決然と起こしたその細面は凄艶であった。
「殿の義弟君がこれでは、あまりにも」
何しろ山下柵左衛門、あろうことか主君の関東管領と鎌倉公方の関係すらよく分かっていなかったもので、その他もろもろ長狭介も口挟まずにはいられぬのであった。
「おめぇも郎党の争いを仲裁すっぺ?」
「あいさ義兄者、それが親分の仕事でねえか」
「そいじゃ、おめぇが争いさ起こしたら誰が仲裁するだかよ」
言葉に詰まる柵左衛門にひとつうなずき長狭介、おもむろに口を開いた。
「それが鎌倉公方、坂東武士の大親分だわで。関東管領はその補佐役、公方さまの弟分だ」
「でも義兄者よぉ、公方と管領が下総結城で大戦したって、隣の里見もそこで暴れて逃げてきたって聞いたがよ」
「あいさ、今も兄弟喧嘩の最中だわで子分のおら達が苦労しとるだがよ」
そいじゃ続いて、その戦の経緯をだな……と語ろう暇もあるものか。
「里見で思い出した。ちょうど帰って来とるでねぇか」
ひょいと飛び出した影がもう消えている。
まったく落ち着きというものがない。
「我は山下柵左衛門、房州一の槍なり。左馬助どのに一手を仕らん」
応じて開く櫓門に見慣れぬ武者が顔を出す。
「我こそ総州一の力者、大田小文吾悌順なり。あるじに代わりお相手いたす」
義実とやりあえぬのは残念な気もしたが、柵左衛門なりに理解もしていた。
そりゃ殿が槍にかまけてはおいねっぺがと。
そう分別つけて眺めおれば、相手の侍はずいぶんと若く見えた。
「ほんとにおめ、総州一の力持ちだかよ」
「こったら名乗りは言うたもん勝ちだっぺ」
言いも果てずと叩き合う槍の重みに毛深い腕がきしみを上げた。筋もなかなか悪くない。にっと歯を見せ山下柵左、下から穂先を跳ね上げる。そうして撃ちあうこと十余合、さてここからと摺上げた一閃に意外や小文吾吹き飛んだ。柄がぽっきりと折れている。
「何だおめ、そのへろへろ槍はよ。耳かきでもあるめえに」
「槍で無。悪ぃのはおらの筋だ、腕だ」
得物を言い訳にはせぬと開き直られ柵左衛門、手元の槍を振り返る。
「こいつは神余家が家宝、号して逆黒十字。おめぇみてぇな若党の手に負えるわけが無ぇったな。今日は帰る」
以来里見家を訪問する際は安物の槍を持ち込むこととした柵左衛門だが、やりあうたびに折れてしまう。不経済きわまるというわけで、ついには丸太角材にて打ち合う始末。これを試合の後に拾い回れば薪になるというので近郷の好評を呼び、両者の名も漸くに上がっていった。
そんな調子で義実が関東を転戦している間も磨きがかかる野人ぶりに呆れた義兄の長狭介、情操教育とて満仲だの敦盛だの見せたところが柵左衛門、何憚らずおいおいと泣き出す始末。
作法も何もあったものではないが、まあ良いこれぞ柵左衛門と廊下の角を曲がったところで袖を引かれた。妻の玉梓、近ごろ妙に積極的……と握り返した手の冷たさに目を上げる。
「みやこの文によれば近ごろ守護大名の勢威さかんにして、山名殿など六分一殿とほめそやされておるそうにござりまする」
それでこそ玉梓よと、長狭介の頭も冴える。
「当方を顧みるに、寄る辺はやはり管領上杉が一党と仰せか。上越武相を股にかけ、常陸佐竹を取り込んで」
かなたに聞こゆる笛の音の拍子に合わせておどければ、うなじに爪を立てられて。
「……いまや鎌倉公方を討ち果たさんとしております」
「公方がたも侮ってよいものにはござるまいよ、奥方どの」
深々と低頭するあたりは室町の男女夫婦の間柄というものでもあろう。それでも玉梓、引き下がろうとはしなかった。
「表を知らぬ女の身……なれど、武家にては以て天機となすのでは?」
能楽師をもてなす喧噪が遠く聞こえていた。
宴に酒に女に、かつて覚えた心躍りがいつの間にやら失せていた。
「田舎国人、房州六分一殿に過ぎぬ我に為すところなど」
「丈夫ただ志の有無に在り。懐中に八房を養い、位を贖う財を積み、剛勇と契をなしたる殿はそも何をお求めか」
欺きおおせぬことなど分かっていた。
長狭介が女に求めたものとは対等の知性なのだから。
「妻を大納言の女と祭り上げながら、夫は房州一国のあるじに留まると仰せか」
男が得たものは、対等だけではなかった。
竦む歩みを励ます足、ためらいに惑う背を押す腕。
その欠けたるをともに補いあってこそ。
「天機に遭いて八郡に臨む、地その勢は阻。いま我ついに人を得る」
「されば何を以てか大恩に報ぜん」
玉梓においてそれは理、人情の自然であった。
だが長狭介において求めるものではなかった。
そういうことを言ってほしいのではない、断じて違う。
「我ここに志を樹つ。ならば奥いや玉梓、天与の伉儷よ。授くるに策を以てせよ」
負い目の傷を包む胸、伏せる面を預ける背。
その欠けたるをともに補いあってこそ。
大田小文吾悌順:八犬士、悌珠。後に犬田と名を改める(改変)




