タマネギヴィレッジ ⇒ 東京
組織の力は強大だ。あれほど燃え盛っていた炎も、たった数台の消防車とヘリコプターによって、日が昇る頃には鎮火させられた。
現場には警察の姿もあった。どうやら国際的犯罪者の情報は既に内々に通達されていたらしく、至る所から武器が発見されたにもかかわらず、誰も驚くことなく、淡々と事後処理は進められた。
美佳は、焼けたタマネギーホールを呆然と眺め、立ち尽くしていた。
後ほど事情聴取があるからと、この場に留まるよう指示を受けたが、特に拘束されることもなく放っておかれている。
しばらくすると一台の車が近くに停まり、中から男が姿を現した。マイケル中田だ。マイケルは美佳の姿を認めると、神妙な面持ちで声を掛けてきた。
「すまない、遅くなった。神崎は死亡したらしいね。それから、タマネギ男も……」
それに対し美佳は、呟きでもって応じた。
「タマネギ男って、誰ですか?」
「何を言っているんだい。タマネギ男はタマネギ男だよ」
そう言うマイケルを睨め付け、声を強めて言い放つ。
「あの人はタマネギ男なんかじゃありません。あの人は! 長沢郁夫です!」
失言をしたことを自覚したのか、マイケルは黙り込んだ。
そんな彼の胸にすがり付き、引き続き訴える。
「……そして、あの人は、わたしの、先生なんです」
それ以上何も言えず、美佳はマイケルのことを力なく叩いた。
郁夫は言っていた。『美佳ちゃんは有能だ』と。果たしてそれは真実だろうか。一つの存在を失った悲しみをどう処理すれば良いか分からず、こうして八つ当たりすることしか出来ない。有能であれば結果も変わっていただろう。むしろ、郁夫のほうが。
目的のためならば手段を選ばない自分に対し、彼はいつだって、周りのことを考え、無鉄砲で、いい加減で、現実を見れなくて、ああ、やっぱりただの馬鹿だった。
でも。
これから普通の日常が訪れる。ただし、見える景色と漂う匂いは、いままでとは違うもののように感じられることだろう。くだらない憩いの時間を与えてくれる彼はいなくなった。ウィンとウィンの関係は消えてしまったのだ。
無言の時間が流れる。粛々と、当たり前のように事後処理は進む。
だが、しばらくすると、どこかから甘い匂いが漂ってきた。
辺りにいる人達もそれに気付いたらしく、匂いのする場所、タマネギーホールを見つめた。そして、一斉に駆け出した。
「うおぉぉぉ、なんだこの旨そうな匂いは!」
「幸せな匂いがする! 幸せな匂いがするぞ!」
「あの山の中だ! 掘り起こせ!」
人々はタマネギーホール内の山積する灰を取り除き始めた。美佳もそれに続く。人込みを掻き分け、薙ぎ払い、まだ仄かに熱を帯びた燃え殻を素手で掘る。
やがて、匂いの出処は姿を晒した。それを見て美佳は叫んだ。
「先生!」
幸せを発する人、郁夫は、薄く目を開けた。
「あ、あれ? 俺、ひょっとして、生きてる?」
「わたしの姿が、あの世の天使のように見える?」
「いや、美佳ちゃんは美佳ちゃんだ。俺、生きてるんだな……」
見れば、郁夫の周りのタマネギが燃え残っていた。高所から落下した郁夫の身体はタマネギの山に埋もれ、炎の被害を免れたのだろう。そして、丁度良い具合に蒸された。
タマネギの呪いを解く方法は、なんてことはない、加熱すれば良かったのだ。タマネギの催涙成分、すなわち辛味は、加熱することで分解される。
郁夫からは甘い香りが漂っていた。ガスマスクがなくても傍にいられる。美佳は、ゴーグル越しではなく、裸の目で、横になる彼を感慨深く見つめた。
郁夫が、惚けた調子で言う。
「なんだよ美佳ちゃん。泣いてるのかよ」
美佳は涙を流しながらも笑顔を作り、強い口調で答えた。
「泣くわけないでしょ。これは、タマネギが目に沁みただけなんだからね!」
そうして、郁夫のことを抱き締めた。
一年後、東京。
美佳は目の前に立つ人物に対して、深く頭を下げた。
「無事に大学に合格できました。ご指導のお陰です」
その言葉に対し、目の前の人物は素っ気なく言葉を返す。
「いや、君が優秀なだけだよ」
「そんなことないですよ。権威ある方から直接ご指導いただけるなんて、とても良い経験でした。大変感謝しています、繁幸教授」
「君も調子が良いな。誰かの性格が移ったんじゃないか?」
そう言って、目の前の人物、繁幸は、小さく笑った。
一年前のあの日、繁幸は、諜報機関による手厚い治療により、一命を取り留めた。その上、逮捕も免れた。詳しいことは知らされていないが、どうやらなんらかの司法取引が行なわれたらしい。繁幸の犯した罪の証拠は、日本の警察ではなく、某国の諜報機関だけが握っている。おそらく、化学兵器のデータ提出および今後の研究協力、それを担保に日常を保障されたのだろう。事実、諜報員のマイケルが助手として復帰している。
何が正義かは分からない。研究によって生まれる物で被害を受ける人がいるかもしれないし、繁幸に至っては某国に飼い殺しにされているとも言える。ただし本人は、研究さえ出来ればそれで良いみたいだ。美佳にしても、変わらない景色の中で、身近な繋がりを保てればそれで満足だと思っている。
「あ、『誰か』と言えば、郁夫先生も無事に進級できたみたいですね」
「ああ。首の皮一枚でな。まったく。あいつもやれば出来る子なんだがな」
その言い方がなんだか面白くて、美佳はうつむき、含み笑いをした。
「どうした?」
「いいえ、なんでもないです」
改めて礼を述べ、美佳は繁幸の研究室を後にした。
徒歩で帰路に就く。
その後、間もなく自宅に到着しようとしている時、それは聞こえてきた。
「美佳ちゃぁぁぁん!」
尖った頭の人影が駆け寄ってくる。
「あれ、郁夫先生、どうしたの?」
「合格おめでとう!」
「わざわざそれを言いに来たの?」
「違うんだ!」
そう言うと郁夫は、美佳の手を強く握った。
「ちょっと先生。外では、こういうことをしないでって言ったでしょ」
「違うんだよ! 一緒に逃げてくれ。追われてるんだ」
「はい?」
「ヤバイ。もう来た……」
郁夫に手を引かれ、走り出す。
「ね、ねえ、先生、どういうことなのか説明して」
「俺の身体から漂う匂いを狙ってる組織があるんだ」
一年前、郁夫の身体から催涙ガスが放たれることはなくなった。しかし今度は、体温が上昇すると甘い香りを放つ体質になってしまった。
走りながら郁夫が話の続きを語る。
「俺の匂いは著しく多幸感を与えるから、あいつらは、それを利用して麻薬を作ろうとしているんだ。俺はそれを阻止する!」
「またそんな厄介なことになってるの?」
「仕方ないだろ。とにかく、協力してくれよ」
どこへ行くのか分からない。
何をすれば良いのか分からない。
それでも、郁夫と美佳は、手を繋いで走り続けた。
タマネギ男 〔 完 〕