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カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
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ガノレスの誘い

 パリのセーヌ川左岸に位置するカルチェ・ラタンと言えば、当時、ヨーロッパ各地から四千人もの若者が集まった学生の街だった。


 その中でもファンが所属している聖バルブ学院という寄宿学校は、一四六〇年にナヴァール寄宿学校の教師だったジョフロワ・ル・ノルマがポルトガル国王の支援で開設した学院で、ファンが学院にいた時期には二百人の学生が寄宿する有力な学校であった。


 ちなみに、聖バルブ学院の学生たちとは犬猿の仲のモンテーギュ学院は、百人いるかいないかだったらしい。


「今日も新入生がやって来るみたいですね」


 窓辺に腰かけて本を読んでいたダミアンが外を見下ろしながらそう言うと、ベッドに寝転がっていたエドモンが「腹減ったなぁ」とあくび交じりに言った。


「うん、そうだな」


 ファンは、二人にまとめて返事をした。そして、エドモンに対して「もうすぐで昼飯だから我慢しろ」と付け足すのであった。


 ファンが聖バルブ学院に入って二日後にやって来て、同室となったのが読書好きのダミアンである。彼はパリ近郊のシュヴルーズの商人の息子で、自宅にはたくさんの本があるそうだ。ただ、全て蔵書家である父の大切な収集品のため、ダミアンが学院に持って来られたのは数冊の小説だけだった。ファンよりも一歳年下の十六歳、誰に対しても丁寧語で話す温和な少年である。


 ダミアンが来てさらに三日後、お腹が膨れ上がって今にも破裂しそうな肥満体質のエドモンという青年がファンたちの部屋のドアをノックした。彼はファンと同じガスコーニュ地方の田舎貴族の子息なのだが、ファンと比べたらずいぶんと品がないというか、暇さえあれば空腹を訴える大食漢だった。エドモンは聖バルブ学院の食事の量に不満たらたらである。「腹減ったぁ」と大きなお腹をたぷたぷ揺すりながら言うのだ。学院に来てわずか三日目で「でっぱらのエドモン」というあだ名をつけられてしまう始末だった。ちなみに、ファンと同い年である。


 同室となったこの三人、あまり話が噛み合わない。


 ファンは、おしゃべりな友人に対しては口数が多く、無口な友人に対しては口数が少ないという、他人に合わせた付き合い方をする性格である。


 読書好きのダミアンはたいていの場合は本に集中していて黙っているが、屋敷に来客が多くて騒がしい環境の中で読書する習慣に慣れてしまっていた彼は、逆に静かな中で本を読むのは苦痛らしく、ファンとエドモンが黙っていると、沈黙に耐えかねてさっきのような他愛もない独り言をぽつりと言う。


 エドモンは何を言われても「腹減った」と返すため、このままでは気まずいと思ったファンが「うん、そうだな」と二人に返事をするのである。


 ただ、別に仲が悪いというわけではい。たぶん、三人ともまだそれぞれの距離をはかりかねているのだろう。いずれ自然に付き合うことができるとファンは考えているが、三人のうち一人だけ貴族の出ではないダミアンは居心地の悪さを密かに感じているようだった。そのことを食うことしか頭にないエドモンは気づいていないが、ファンは薄々察していた。


「ファン君、エドモン君、ダミアン君。いるかね」


 ドアの向こうで鼻づまりの声がした。ガノレス助教授だ。彼は秋風肌寒い夜中に、毎夜のごとく学院を抜け出して遊びに出かけているため、風邪を引いてしまったらしい。


「はい。何でしょうか」


 ファンが返事をすると、ガノレスはグスンと鼻水をすすりながら部屋に入ってきた。そして、いつも通りの真面目腐った恐い顔で、


「君たち、今夜、女を抱かないか?」


 と、敬虔なキリスト教徒であるグベア博士が聞いたら激怒のあまり卒倒してしまいそうな、とても軽薄な誘いをしてきたのである。


「いただきます!」


 むくりとベッドから飛び起きたエドモンが嬉々として答えた。ファンが眉をしかめて言う。


「エドモン。食い物の話じゃない。大人しく寝ていろ」


「何だ、違うのか。聞き間違えか」


 バタン、とエドモンはまた横になった。太鼓腹が左右にぽよよん、ぽよよんと大きく揺れ、「ぶふっ!」とガノレスは思わず噴き出す。失笑している時でも、この助教授の目は血走っていて恐い。


「あ、あの……女を抱く、というのはどういうことでしょうか?」


 ダミアンが頬を赤らめながらガノレスにたずねた。


 彼もガノレスの誘いの意味が分からないほど子どもではないが、学生を教え導くべき助教授が娼婦のところに行こうと誘惑してくるとは夢にも思っていなかったので、驚き動揺しているのである。


 ……いや、もしかしたら、「女を抱く」とは学院内で使われている隠語で、全く別の意味かも知れない。「今夜はみんなで礼拝堂の掃除をやります」だとか、そういう合言葉の……。


「売春宿に行こう、と誘っているのだよ」


 ガノレスは、ダミアンが抱いたわずかな期待をあっさりと裏切り、そう言った。今度こそ、ダミアンは耳まで真っ赤になった。


「……学院の外に出るのですか?」


 ガノレスが夜な夜な何をやっているのか、すでに知っているファンは、動揺することなくたずねた。


 どうやらファンは乗り気らしいと察したガノレスは、喜怒哀楽全ての表情が怒っているように見える顔を珍しく、明確に笑っていると分かる程度に緩ませた。


「ああ、そうだよ。学院の規則は厳しくて息が詰まるだろう。君たち若者は、大いに学び、大いに遊んでこそ、青春を謳歌できるというものだ。規則にがんじがらめなんて、つまらない青春だよ。僕が夜の遊び方を教えてあげよう」


「もしも学院にばれたら、罰則はどうなりますか?」


「鞭打ち。でも、大丈夫。ばれたことなんてないから」


(この間、俺に声をかけられて、驚いて塀から落ちたくせに)


 ガノレスは、その厳めしくて真面目そうな見た目のおかげで彼の本性を見抜けていないグベア博士からは信頼されているが、ファンの見立てでは、軽薄でかなり迂闊なところがある人物である。こんな男の誘いに乗って、ホイホイついて行ったら、とんでもない目に遭うかも知れない。


(だが、今のところ、学院の外に出る方法は、この助教授の夜遊びに付き合う以外にはない)


 そう考えたファンは、「行きましょう」と言った。


「え!? ファンさん、本気ですか?」


 まさかファンがガノレスの誘いに乗るとは思っていなかったダミアンが、裏返った声で叫んだ。知り合ってまだ数日だが、授業態度を見る限りファンはとても勤勉で、売春宿に行きたがるような浮ついた人間には見えなかったから驚いているのである。


「ファンが行くのなら、俺も行こうかなぁ。街に行ったら、美味いものが食べられるかも知れないし」


 空腹でベッドに倒れていたはずのエドモンがいつの間にか起き上がり、ぐーっと腹を鳴らしながら言った。


「エドモンさんまで……」


「ダミアン君はどうするんだい。嫌なら、無理には誘わないが」


 そう言いながら、ガノレスはダミアンを睨みつけた。本人は睨んでいるつもりはないのだが、眼光鋭い彼が人を見ると、自然と睨みつけているようになってしまう。


「い……行きます」


 臆病なダミアンは、ガノレスの誘いを断る勇気が出せず、いまにも泣き出しそうな顔でそう答えた。


(ダミアンに悪いことをしたかな)


 自分が行くと言い出さなかったら、エドモンも乗り気にならず、ダミアンは「二人が行かないのなら、僕も行きません」と断れたかも知れないと思い、ファンは気の毒なことをしたとダミアンに対して少し罪悪感を抱くのであった。

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